投稿者:まなこ   投稿日:2015年 9月11日(金)18時12分27秒     通報
■ 「信心」が仏界のある証明

名誉会長: 「観心本尊抄」の「末代の凡夫出生して法華経を信ずるは人界に仏界を具足する故なり」(御書 p241)との仰せは、非常に重い意味を持っている。
法華経を信ずる「信心」が、私たちに仏界が具することの証拠なのです。

須田: “仏界を具しているから法華経を信ずることができる”というのは、少し不思議な感じがします。“法華経を信ずるから仏界に至ることができる”と考えるのが普通ですが、この考え方とは、方向が逆ですね。

名誉会長: 両方あるのです。確かに法華経を信ずるから仏界に至ると言える。しかし、その「法華経への信」は、自分が久遠の妙法の当体であるからこそ、つまり仏界を具しているからこそ可能なのです。「一切の人々が成仏できる」という迹門の法門にしても、「仏の生命は永遠である」という本門の法門にしても、永遠なるものを自分の中に感じられるからこそ、信ずることができるのです。

斉藤: 無意識的にせよ、人間であれば、誰でも、永遠なるものを感じていると思います。

名誉会長: 誰もが「永遠を感ずる力」をもっている。それが人間の最も大きな特徴かもしれない。宗教が人間にしかないのも、そのためでしょう。それは、「生命の尊厳を感ずる心」と言ってもよいし、「人との絆を貴ぶ心」「自然・宇宙と共鳴していく力」とも言える。そういう「善なる心」「善なる力」こそが法華経を信ずる信力の源です。
いずれにせよ、私たちに仏界が具しているからこそ、法華経を信ずることができると言えるのです。
そして、その信力によって法華経を信ずれば、もともと具わっている仏界の力が開放され、価値創造へと生かされていく。ますます強まっていく。

須田: 仏界があればこそ信心が起こり、信心によって仏界が開かれてくるという関係にあるわけですね。

斉藤: 一面の誓えですが、九界は部屋に閉じこもっている状態、仏界は晴れ渡って澄み切った外の世界に譬えられないでしょうか。九界の衆生は、もともと仏界という大宇宙の中にいる。人間は、それを「永遠を感ずる」という形で、うすうすは感づいていたが、迷いという厚い壁に覆われた部屋に閉じこもっているため、わからなかった。しかし、信心によって迷いの壁を破れば、妙法という大宇宙の空気を呼吸できるようになる —- 。

遠藤: 信心のカギによって心の窓を開ければ、外のさわやかな空気も、さんさんたる光も部屋に入ってくる。部屋の中にいても外にいるのと変わらなくなります。

名誉会長: 九界と仏界の関係については、次に語ることにしよう。