投稿者:だいせーどー   投稿日:2015年 9月 8日(火)17時07分31秒     通報 編集済
宮田教授の講演内容を聞いた感想です。

間違った認識から整理されていることが幾つかありその個別を突っつきたいのですが。(笑い)
一旦置いておきます。

大きな論点として、日寛教学(相伝教学)から完全に離脱するのか?
がポイントではないかと思いました。

失礼ながらも、宮田教授がそもそも日寛教学について無知であり
ご自身もそのように認識されている発言を別のところでされていたかと。
大御本尊が真偽未決なので決別したい、また、世界宗教になるために
日蓮本仏が足かせになるって理由はちょっと違うのではないかと思います。
詳しい方に教えていただきたいのですが。
日寛教学を止揚し、分身散体の義はそのままで、法報応の三身を展開することで
「わが身も大御本尊である」との解釈が成り立たないでしょうか?

これって、新・人間革命の大道で示された池田先生の四国指導です。
この論法で、人間主義としての日蓮本仏観を見直しができるのではないでしょうか?
その方が現実的な展開ができるし、過去との連続性も保てるはずです。
過去との決別 = つまり創価学会の三代までの会長指導から完全決別したいと思っているのが
現在の創価学会執行部なのではないでしょうか?
それなら、宮田教授をアドバイザーとして受け入れている意味がよくわかります。

そもそも、相伝教学ではなく真筆の遺文からしか研究していないのは、原理主義です。
日蓮原理主義だと、遺文にないことは解釈ができにくくなり、より世界への普遍性がなくなります。
狭い日本の国の中で、鎌倉時代という封建制の中での遺文に固執することの方が
世界宗教になるのか甚だ疑問です。
また、相伝教学から離脱すると日蓮宗の本尊でもよくなる危険性がある。(事実宮田講演で認めています)
宮田教授が論文で述べている教団の自治権での本尊認定権はあっても、
認定された本尊以外にも(個人の信仰上はどの本尊でもよくなる)認めざるを得ないでしょ。

(本尊に迷うし雑乱になります。戸田先生の本尊だけはつくれないってこの意味では?)