2014年12月28日 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2014年12月28日(日)08時33分43秒 長文ですが、大事なところなので核心部分を通解で引用します。 《次々と大難に遭う大聖人が本当に法華経の行者であるのか、 法華経の行者であるならば何故に諸天の加護がないのか、 という人々の疑問について経文と道理に照らして種々、検討してきたが》 「結局は、天が私を捨てるのであれば捨てるがよい。 多くの難に遭わなければならないのであれば遭ってもかまわない。 身命をなげうって戦うのみである」(二三二頁) ――と決意を述べ、 「舎利弗が過去世に、六十劫の菩薩行を積み重ねたのに途中で退転してしまったのは、 眼を乞うバラモンの責めに耐えられなかったからである。 久遠の昔に下種を受けた者、あるいは大通智勝仏の昔に法華経に縁した者が、 退転して無間地獄に堕ち、長遠の時間を経なければならなかったのも、 悪知識に会って惑わされたからである。 善につけ、悪につけ、法華経を捨てるのは地獄に堕ちる業なのである」(同頁) ――と退転の恐ろしさを語り、 「大願を立てよう。『法華経を捨てて無量義経を信じて後生を過ごすならば、 日本国の王位を譲ろう』『念仏を称えなければ父母の首をはねるぞ』などの 種々の大難が起こってこようとも、智者に私の正義が破られるのでないかぎり、 そのような誘惑や脅しに決して動かされることはない。 その他のどんな大難も風の前の塵のように吹き払ってしまおう。 『日本の柱・日本の眼目・日本の大船』と誓った大誓願を決して破らない」(同頁) ――と大誓願の師子吼を宣言しました。 開目抄は「日蓮の大願に目を開け」「日蓮の発迹顕本に目を開け」というのが根本趣旨です。 日蓮大聖人にとって、諸天に守られるかどうかは二義的な問題なのです。 悪世末法に仏と同じ「大誓願」に生きる人こそが、真正の仏の弟子であり、 誓願によって「強き自分」を確立したときに、本当の現世安穏が開かれていくと訴えているのです。 開目抄の中で大聖人は、なにも「自分が仏だ」と自慢し誇っているわけではありません。 大聖人自身の「大願」を明かして、 弟子たちに「日蓮と同じ勝利の大道を歩め」と教えているのです。 大願は、強き自分をつくるからです。 誓願とは、弱き自分を捨て、強き自分を何があっても貫き通すための支えなのだと思います。 Tweet