投稿者:ジョーカー   投稿日:2015年 8月19日(水)01時11分23秒     通報
南無妙法蓮華経を現実に具現化すると、不自惜身命の行動となってあらわれる。創価学会は言うまでもなく、創価三代の不自惜身命の信心があったからこそ発展し、日蓮大聖人直結を名乗ることができる。だからこそ三代会長の精神を大事にし、受け継いでいくことを最重要視しているわけです。

もしも牧口先生が法主に呼吸を合わせ、神札を受け入れていたら、今日の創価学会はありません。神札を拒否するということは、学会は壊滅状態になり、すべてを失う結果になることは明白だったことでしょう。しかし、どんな事態になろうとも絶対に譲れないものがある。それが信仰というものでしょう。

不自惜身命の信心の反対は保身の信心です。体制側の人間というのは秩序維持を最優先する傾向にあり、保身の信心に陥りやすい。54年もまた、根底にあるのは最高幹部の保身の信心であったことは論を待たない。それが結果的に師を見殺しにし、裏切りという形となってしまった。これは神札に当てはめると、「神札を拒否して、創価学会が壊滅してしまったら元も子もない。それは最悪の事態であり、何としてでも避けなければならない。ここはひとまず神札を受け入れることが学会を守ることになる」ということではないだろうか。

神札を拒否した結果、牧口先生は獄死し、幹部も軒並み退転し、学会も壊滅状態となりました。しかし、本物の弟子である戸田先生が反転攻勢をされ、大創価学会をつくられた。もしも牧口先生、戸田先生が保身の信心であったのなら、創価学会はダメになっていたことでしょう。54年は誰一人として不自惜身命の信心の弟子がいなかったからこそ、弟子の敗北の歴史が刻まれたわけです。ここから推測するに、本門の池田門下の条件は、「不自惜身命の信心」に他ならないのではないでしょうか。

人は気付かぬうちに保身の信心に陥ってしまう。幹部であればあるほどそうなのかもしれません。保身は感覚が鈍り麻痺していきます。虹と創価家族様が、「『先生にご迷惑がかかる』『先生の悪口を言われる』『先生が嘘つきになる』この言葉に何も反応しない幹部は、何を話しても無理」と言われるように、本当に何も感じなくなってしまうのではないか。きっと54年時も、同じような感覚の幹部が多かったのではないでしょうか。

官僚主義的傾向の強い日本の学会の組織では、秩序維持を優先する結果、多くの幹部が保身の信心に陥っているのではないか。人間主義や民主主義はまだまだ名ばかりであり、実態は「上の言うとおりにやってくれ」という官僚主義でしょう。人間主義・民主主義を維持することは、絶え間ない努力と、壮絶な戦いが必要であり、勝ち取っていくものです。そのためには、保身の信心からの脱却をしていかなければなりません。

どんなことでも正当化することはできます。保身の信心でも「秩序維持」を名目にすれば、正当化できるのです。「時流には逆らえません」も、時流を理由に保身の信心の正当化です。これはごまかしであり、不自惜身命の精神が微塵もないことに、先生はお怒りになられたのではないかと思います。池田門下を名乗るなら、不自惜身命の信心を体得していかなければならないというのが、現在の私の問題意識です。