投稿者:まなこ   投稿日:2015年 8月13日(木)13時01分32秒     通報 編集済
§従地涌出品§(3)
我、地涌の菩薩なり —- 「永遠の自己」の発見
■ “地涌”とは民衆の「内発の力」を開拓

須田: 今年(1997年)は、池田先生の入信50年です。この50年の軌跡は、まさに「一人の人間革命」が社会を変え、日本を変え、世界を変えるうねりとなった証明の年月だと思います。

遠藤: まさに、法華経の「本門」の真髄を見る思いです。現実の大地の上に展開された「生命変革のドラマ」です。

斉藤: 弟子として、私たちは感謝してもしきれません。弟子として、私たちも必ず続いてまいります。

名誉会長: 烈風の50年だった。激闘の50年だった。戸田先生と二人で走り抜いた50年だった。全部、原点は戸田先生です。戸田先生と一体で勝ったのです。
戸田先生は言われた。「大革命をやるのだ。武力や権力でやる革命ではない。人間革命という無血革命をやるのだ。これが本当の革命なのだ」と。
“貧乏人と病人の集まり”と言われた人たちとともに、民衆の民衆による民衆のための革命をやってきたのです。権力にもよらず、財力にもよらず、一人一人を「裕福になれ」「健康になれ」と抱きかかえながら —- 。
今、世界で一千数百万の同志が、人間革命の黄金の軌道を歩んでいる。

遠藤: 「貧乏人と病人の集まり」と言われたことは、一番苦しんでいる人たちのところに創価学会が光を届けた証拠です。
アジア太平洋人権情報センターの金東勲所長も、「貧乏人と病人の集まり」とは、人を救う宗教団体にとって「最高の称号」と言われています。

斉藤: 学会の運動が正しい証拠だとも言われていますね。

須田: 何か、イメージとして、地涌の菩薩が下方から、ぐーっと湧き出てくるのと、ぴったりする感じです。
もちろん、この下方とは社会的に下方ということではなく、生命の根源であり、妙法ということですが —- 。

斉藤: いや、その二つは別々のものではないでしょう。何も頼るものがない庶民だったからこそ、裸一貫というか、我が生命の力をふりしぼる以外に道はなかった。だからこそ、「命を変える」法華経の信仰の偉大さも早くわかった。そういうことではないでしょうか。

名誉会長: 権威の鎧もない。学歴の盾もない。財力や地位の剣もない。ただ、我が生命の本然の力を出して戦う以外になかった。
そして人間性と人間性で連帯する以外になかったのです。
■ 学会は「菩薩の集団」

遠藤: 中国・深川大学の蘇東天教授の講演を思い出します。
香港SGI主催の文化講演会です。(「二十一世紀と仏教 —- 池田SGI会長の仏法思想と二十一世紀文明」=1996年9月、香港文化会館で)
教授は、欲望に翻弄される人類を憂えて、池田先生のような“良心的な知性”こそ、未来への光明であると訴えておられる。
「とりわけ、特筆すべき偉大な功績は、その人格の周りに、多くの“菩薩の集団”をつくり上げたことではないでしょうか。日本の創価学会、香港SGIの皆さま方です」。
「(SGIは)これまでのさまざまな組織とは異なり、利害やイデオロギーによるつながりではなく、また法や契約などに基づくものでもない —- 強制的・外在的といった要素を一切排した、いわば、人と人の“心の絆”、“友情”だけがその礎となっている」と。

名誉会長: よく見てくださっている。全部、民衆自身の「自発の力」です。民衆の「内発の力」を開拓したのです。それが、すごいことなのです。学会の底力がそこにある。
上からの権威などで、これほど多くの民衆が、これほど長く、生き生きと動くわけがない。これこそ、まさに法華経の「地涌」の義そのものの姿なのです。

須田: そう言えば、地涌の菩薩は、「神」のように天上から降りてきたのではありません。大地の下から踊り出るように出現してきた。そこに、限りない民衆性が感じられてなりません。

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涌出品から
「是れ何れの所より来れる 何の因縁を似ってか集れる 巨身にして大神通あり 智慧思議しガタ(はこがまえに口)し 其の志念堅固にして 大忍辱力有り 衆生の見んと楽う所なり 為れ何れの所より来れる」

(地涌の菩薩の出現を見て、弥勒菩薩が驚いて釈尊に質問する)この人々はどこから来たのでしょうか。どんな理由があって集まったのでしょうか。大きな体躯の人々であり、偉大な神通を持っており、その智慧の素晴らしさは考えることもできません。仏道への志は堅固であり、大いなる忍耐力を持っています。衆生が見たいと思う人々です。彼らはどこから来たのでしょうか。
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