投稿者:信濃町の人びと   投稿日:2015年 8月13日(木)11時46分34秒     通報 編集済
記別=授記

で成仏とは何か?になるのです。どう生きていくか?
生き方こそ仏なんです。
観念ばかりでなく、もう少し勉強してください。

それから学校を出たから偉いとか無いですよ。
英知を磨くのは何の為の?ではないの?

学校の勉強は知識を得る為。それをどう生かすのか?
これが池田先生が教えている人間学です。

残念な学園生の認識は厳しいね。だからロクな議員がいない。
こう先生が言われているのでは?
もちろん学園生に立派な人もいるが、結果から判断すれば学校が何処かで差別的な意識を持つ方は、池田先生の弟子ではないです。
池田 むずかしい問題であるが、端的に言えば、成仏とは、ひとつの「ゴール」に至ることというよりも、絶えず仏界を強め続けていく「無上道の軌道」に入ることなのです。
法華経の迹門では、まだ歴劫修行の成仏観から出ていません。それで、「遠い未来に成仏する」という授記になる。しかし、その本意は、「仏と同じ道を歩ませること」にあるのです。仏が歩んだ「生命の軌道」「絶対的幸福へのレール」にたしかに乗ったよ、と保証するのが授記です。
「色相荘厳の仏に成る」という爾前流門の成仏ではない。仏が歩んだのと同じ「軌道」を歩み続けること自体が成仏なのです。
それでは、仏と同じ「軌道」を行くとは、具体的には、どういうことか。それは法華経を「受持」することです。
法華経の受持とは、法華経に示された仏の心を自分の生命に刻んで、仏の心の通りに生きていくことです。何があっても仏の心から離れないように生きていくことです。だから仏道という「軌道」をはずれない。
神力品(第二十一章)には「我が滅度の後に於いて応に斯の経を受持すべし是の人仏道に於いて決定して疑い有ること無けん」(法華経五七八ページ)とあります。すなわち、法華経を「受持」する人が、「仏道」を間違いなく歩めるのです。そして、その人の成仏は疑いないと説かれている。

斉藤 ″成仏とはどのような「状態」か″という問いそのものに、まだ爾前迹門の成仏観にとらわれている面がみられます。今の姿とは違う、何らかの″達成された状態″を想定している場合が多い。私たちは、どうしても「仏に成る」という表現から、そういう考え方になりがちです。

池田 そうだね。大聖人は、成仏とは仏に「成る」のではなくて、我が身を仏と「成(ひら)く」、仏の生命を「成く」ことだと仰せです。
戸田先生も「成仏とは、仏になる、仏になろうとすることではない。大聖人様の凡夫即極、諸法実相とのおことばを、すなおに信じたてまつって、この身このままが、永遠の昔より永劫の未来にむかって仏であると覚悟することである」(『戸田城聖全集』3)と言われています。
授記品には、目連への授記のときに、「是の身を捨て已って(捨是身已)」(法華経二七〇ページ)という言葉が出てくる。目連が今の身を捨てて、未来世に多くの諸仏のもとで修行し、最終的には成仏するという趣旨の文です。
大聖人は、この文について「是の身を捨てて仏に成るというのは爾前権教の意である。むしろ、そのような執情(とらわれ)を捨てることが、法華経のこの文の本意である」(御書七三一ページ、趣意)と言われている。そして、この「捨てる」というのは「ほどこす」と読むのだとされ、この身を捨てるとは「法界に五大を捨(ほどこ)す」ことであると仰せです(御書七三一ページ)。法界とは宇宙であり、世界であり、すべての衆生です。五大とは生命です。「法界に五大を捨(ほどこ)す」とは、わが生命を利他のためにほどこす「菩薩の行動」です。菩薩道を歩むこと自体が、成仏なのです。
法華経では、本門(後半の十四品)で新しい成仏観が示されます。すなわち、寿量品(第十六章)で説かれた久遠実成の仏は、成仏してからも菩薩行をやめていません。″菩薩であることをやめて仏に成った″のではないのです。
仏の実践、姿といっても、具体的には菩薩行なのです。成仏しても菩薩道という「軌道」を歩み続ける。それがすなわち「仏道」なのです。

斉藤 寿量品の最後にも「どうすれば衆生を無上の道に入らせ、速やかに仏身を成就させることができるのか」(法華経四九三ページ、趣意)との仏の願いが説かれています。
「無上の道に入らせる」ことが、仏身を成就させる(成仏させる)ことであることがうかがえます。

池田 やはり本門の眼で見ると、成仏とは「ゴール」とか特別な「状態」というよりも、「軌道」だということになるね。あえて、成仏以前と以後との「状態」の違いを言うとすれば、軌道が「定まっている」か、「定まっていない」かの違いと言えるのではないだろうか。
「軌道が定まっている」というのは、自他ともの幸福を願う「心」が定まっているということです。その心でつねに前進しているということです。

須田 自他ともの幸福、平和を願う心の軌道が、全世界にに広がればすばらしいですね。

四大声聞への授記

斉藤 「軌道が定まる」というお話がありましたが、これは「授記」という言葉の元意にも一致しています。

遠藤 「記」という漢字は元来、″ものごとを立て分け、筋道を立てて表す″という意味です。漢訳の「授記」は、鳩摩羅什が使い始めた訳語で、それ以前は「記別」「授決」などといっていました。記別の「別」も″立て分けて区別する″という意味ですし、授決の「決」は″はっきりと立てわけて取り決める″ことです。

須田 「授記」のサンスクリットの原語は「ヴィヤーカラナ」といいます。これには、「区別」「分析」「発展」などの意味があります。仏典では、″疑問に対して明確に答えること″という意味で用いられています。

斉藤 要するに、授記の「記」というのは、明確に述べることです。明確に述べることによって、成仏への軌道を最後まで間違いなく歩ませるのです。信解とは″向上への志″であることは既に確認しましたが、その志を″生命の奥底に刻む″力が授記にはあるのでしょう。

池田 そう。元来、授記とは、明快な答えを述べ、人々の心の疑いを解決することだね。
リーダーはつねに「明快」でなければならない。あいまいは悪です。人々に不安を与えるからです。「確信を与える」のが「授記」のポイントです。
斉藤 経典で述べられている「授記」「記別」の大半は、死後どのようになるのかに関するものです。死後や未来にどうなるかは、はっきりとはわからない。だからこそ「明快に語る」必要があったのではないでしょうか。天台も、授記とは「言葉を用いて弁える」ことだと述べています。
池田 仏が「記を授ける(授記)」のは、その人自身に、成仏できることを″はっきり弁えさせる″ためです。自覚させ、確信させるのです。