投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2014年12月26日(金)10時46分54秒  

ちなみに竜口の法難(発迹顕本)は、文永八年(一二七一年)九月十二日ですが、
創価学会の「教学の日」の制定は、竜口の法難と同じ九月十二日です。
学会教学の原点は、日蓮大聖人の「発迹顕本」にあるといっても過言ではないと思います。

さて、十一月の初めに佐渡に到着されてから直ちに構想された「開目抄」が、
二月に完成し弟子門下に送られます。
「をそろしくて、をそろしからず」
――恐ろしいように見えるが、本当は何も恐ろしいことはない――

経文に示されている通り、どんなに恐ろしい障魔の大難であっても、
不惜身命の覚悟で広宣流布に立ち上り、すべての障魔に勝ち切られた大聖人の境地からみれば、
何も恐れる必要はないということなのです。

しかし、不惜身命の覚悟に立てず、師匠の指導を忘れ、何かあるとすぐに疑い、
臆病で退転しそうな弟子たちにとっては「みん人いかにをぢぬらむ」となります。
つまり、勧持品の「三類の強敵」の経文を覚悟もなく見れば、
どれだけ恐ろしいと思うだろうかと弟子たちを心配されているのです。

私たち会員に置き換えれば、組織の官僚的な幹部に対して、
何も言えず、抵抗すれば「職場を追われ、家族は路頭に迷うことになる」と、
わが身の保身だけを考えている一部の学会職員や、形式だけの会合運営に馴らされ、
現場の意見を執行部に進言しようとしない一部の臆病な幹部。

また、内実の伴わない結果だけを地区に求め、
我見の指導をする幹部を見ながら、それと戦おうとしない一部の会員。
人間の心に潜む臆病は、それ自体が生命に宿る一つの病気であり魔に食い破られた姿です。
そして、いつしか生命力も智慧も失ってしまい、ついには敗北の人生に転落していく。

結局、師匠と同じ覚悟に立たなければ、自身の生命が魔に食い破られる――。
大聖人は絶対そうであってはならないのだという戒めの言葉なのだと思います。