投稿者:信濃町の人びと   投稿日:2015年 6月24日(水)12時08分48秒     通報
神奈川・静岡合同協議会(2006.1.16SPより)

〔昭和54年5月3日〕
迫害の嵐の中、神奈川文化会館へ! 神奈川から海を見つめて世界広布の指揮を決意!

◆大勢の同志が待っていた

一、私が、昭和54年5月3日、創価大学での儀式を終えて、その足で、一番はじめに来たのが、ここ神奈川文化会館であった。 到着したのは、午後6時59分。妻と一緒であった。そこには、大勢の、山をなした神奈川の同志がおられた。 会館の前の、1階から2階にあがる大きな階段にもいた。皆、大拍手で迎えてくださったのである。
あの時、なぜ私は、神奈川に行ったのか。 それは、未来を見つめてのことであった。 本部でもない。 東京でもない。 神奈川文化会館の前から、海を見つめて、これからは全世界の指揮を執ろう! 小さくて窮屈な、嫉妬の小国よりも、世界に向けて指揮を執ろう! そう決意していたのである。
私は全世界を志向(しこう)して神奈川に来た。 この海の向こうに、アメリカがある。ヨーロッパがある。アフリカがある。アジアやオセァニァにも通じている。 海を見るたびに、構想は広がった。当時、嫉妬と陰謀と謀略、妬みと焼きもちが渦巻いていた。 創価学会が、あまりにも大発展しているゆえであった。 反発した邪宗門の坊主らが、若干の騒ぎを起こしていた。 その時に私は、もっと高次元から、世界を凝視した。

── ちょうどいい。
世界広宣流布の布石を、本格的に始めよう ── !
そして今や、五大州の190もの国や地域に、学会の平和勢力、文化勢力が
発展したのである(大拍手)。 私の指揮と行動は正しかった。戸田先生がおられたならば、「よくやった、よくやった」と讃嘆してくださることだろう。 その師が今いないことは、さびしい限りである。

◆関西が立った! 埼玉も立った!

一、私が第3代会長を辞任したのは、この昭和54年の4月24日であった。
その時、真剣に、「偉大な学会と、宗門を発展させてきた大指導者が、なぜ、会長を辞めなくてはいけないのか」と、馳せ参じた友がいた。 藤原武君(現・関西長)をはじめとする関西の七勇士であった。
その目は燗々と輝き、その態度は「必ず自分が師を護る」という強い強い魂が光っていた。 今、彼らは、悠然として関西で、最大の勝利の指揮を執りながら、戦っている。
あの時、友は熱い熱い涙を見せた。その光景は一生涯、忘れることができない。
私は言った。
「新しい時代を必ずつくる。 君も一緒に頼む。 あとになって、皆が、偉大な仕事をしたと驚嘆するであろう」と。
学会を弾圧した、恩知らずの邪宗門の連中は皆、もう立ち上がれないだろうと思っていたに違いない。
心堕(お)ちた学会の幹部もいた。しかし、あとになって、幾人か、「あの時は、本当に申しわけなかった」と懺悔(ざんげ)してきた者もいた。 関西が立ち上がった。続いて埼玉の同志が立ち上がって、声をあげた。 「これだけの大功労の会長を、なぜ宗門も、幹部も、辞めさせたのか。 『勇退』と言いながら、引きずりおろした。
学会の将来は、池田先生がいなくては、めちゃくちゃじゃないか。分裂してしまう」 こう憂えていたのである。 「第3代会長を守れ! そうすれば、広宣流布は必ずできる」 これが戸田先生の遺言であった。最高幹部ならば、皆、知っていることである。何よりも、日蓮大聖人が「難こそ誉れ」「難こそ安楽」と教えられている。 何があろうと、いかなる波浪があろうとも、私は、戸田先生との誓いの道をゆく。平和の道、希望の道、広布の道を、朗らかに歩み抜く。
一、大聖人の仏法の真髄は「進まざるは退転」である。
広宣流布へ前進また前進 ── そのために、リーダーは心を砕くことだ。間断なく手を打ち続けていくことである。
戸田先生も、牧口先生も、一面から言えば、本当に、口やかましかった。 「こんなに細かいことまで」と皆が思うほど、神経をめぐらせた。 基本に徹し、よき伝統を守ることだ。それをないがしろにすると、あとで困る。崩れていく。よき伝統というのは、皆が納得し、安心するものである。正しい指導をたもっていける。教育の世界でも、優れた学校には、素晴らしい伝統があるものだ。 リーダーは、よき伝統を大事にしながら、「堅実な発展」を心していただきたい。