投稿者:ジョーカー   投稿日:2015年 6月22日(月)03時32分17秒     通報
御書p900(通解)
「よい弟子をもてば師弟はともに成仏をし、悪い弟子を養えば師弟ともに地獄に堕ちるといわれている。師匠と弟子の心が違えば何事も成就することはできない。」

師は弟子を選べない。たとえ、師敵対の弟子であろうとも、「弟子の罪は師の罪」と、とらえるのが師匠というものです。54年時に最高幹部は先生を裏切りましたが、それでも断罪して切り捨てないのが師であり、師からすれば「腐っても弟子」なわけです。戸田先生が滝本欣也を守ったのと同様、どれだけ師敵対しようとも、明確に反逆しない限りは可能性を信じ、守るのが師の大慈悲なのです。

師の立場と弟子の立場は違います。師が弟子を大慈悲から擁護したとしても、同じ弟子どうしにおいては、擁護してはならないことがあります。「師が擁護したのだから」を理由に、師敵対の弟子を他の弟子が見過ごしてはならないのです。一見矛盾するようではあるが、それが弟子の戦いとなります。そしてこれが御書で説くところの「よい弟子」にあたります。

戸田先生は悪しき弟子ですら責めなかった。しかし代わりに池田先生が責めました。これが本当の師弟というものでしょう。この師弟の呼吸というものを体得していかなくてはならないと思います。そもそも師敵対を許す弟子など、弟子とは言えません。また、師に依存する弟子も、弟子とは言えません。弟子には弟子の矜持があり、それを守っていかなくてはならない。

牧口先生にとって戸田先生は、「よい弟子」でした。戸田先生にとって池田先生は「よい弟子」でした。それでは池田先生にとって「よい弟子」とは一体誰なのか。ほかでもない、自分自身が「なる」と決めていくところに師弟不二がある。果たして現時点で、自分自身は、「よい弟子」なのか、それとも「悪い弟子」なのか。すべては弟子で決まるのです。

師を蔑ろにする増上慢の幹部が出現したら一体どうするのか。「同志」だからといって擁護するのか。それとも、「師敵対ではないか!」と呵責を加えていくのか。師を見殺しにしているのは果たしてどちらなのか。増上慢の幹部の糾弾と、悪口、非難は分別しがたい。智者でなければ見極めることは難しい。

54年は師を見殺しにした歴史ですが、結局のところ、そこには「本物の師弟」がなかったからではないだろうか。そうであるならば、自分自身が本物の師弟を貫く「よい弟子」になる以外にない。よい弟子であろうとすることは簡単だが、よい弟子であり続けることは難しい。気づかぬうちに、悪い弟子へと転落していることもあるでしょう。願わくは、師を軽んじ、甘く考えることのない一生を貫いていきたいものです。