2015年6月20日 投稿者:悪汁ブシャー 投稿日:2015年 6月20日(土)19時24分9秒 通報 皆様お久しぶりです 長文になりますが失礼致します 正義の走者さま初めまして ご意見賛成です >地湧の自覚と実践によって発迹し、その行のところに穢土即寂光の本地本身を自身と顕本す。 >我々もまた、上行に連なる地湧の菩薩の実践を示して、久遠即末法の凡身即極の自身と顕本しなければなりません。 >この穢土こそ本地本国土であり、この凡身こそ本身です。 >宗祖に習って報身顕本するのです。 >末法の我々は、久遠本仏の一念の心法(御本尊)を直拝し、南無妙◯経と唱えて境智冥合するを第一義とする。 >「以信代慧」。我々はこの四字を以って智慧の「勝」とし、是非九識の智慧を発揮しようじゃないか。 ?仏法は仏法で行こう。 ●これこそが本来我々が目指す目的と思います。 素直に感動しました。 大聖人をお手本として、能生の本尊を境として、我々も題目を唱え所生の本尊を開かんと、現実の大変な環境をも楽しみに変えていく。そして自らの国土を仏国土としていく、その諸仏の勢力を増やしていく。立正安国とは当にこれですね。 私の知っている学会教学であり希望があります。 そして体温があります。 ありがとうございます。 私たち最前線の現場の会員は、泥だらけになって御本尊にぶつかってきたのではないでしょうか。 少なくとも、私は御本尊を単に法としてなどと見たことはありません。 仏様として、すがるように自身の宿命を転換するために祈ってきました。そして、乗り越えてきました。 今、最前線の現場は打ち出しをこなすのに一杯一杯で我慢我慢の連続のような気がします。その声は哀音に聞こえます。 そこに残念ながら「宇宙と生命を貫く法」が御本尊だと言われてもピンときません。 今回、普遍性を求めて「宇宙と生命を貫く法」としたのでしょうか。哲学としてなら良いのかも知れません。悟りと救い。その両側面を否定するものではありません。 私は信仰者であり、御本尊に示される本仏の常住の身土を現実になす為にその実現に向かい活動に転ずる。 私は沢山の信仰体験をさせて頂く中で宗教をして御本尊は仏様とみております。 今回の会則からはそれを見出すことが残念ながらできませんでした。 夢鎖獅さま 初めまして? 横からすいません ? >故に池田先生は、団結の意味を何度も何度も、繰り返し教えてくださったのだと思います。 ?鉄の団結がなければ、魔にやられてしまいます。 ●団結って何ですか? 私には事なかれ主義の主張にしか見えないです。 悪いものを悪いと主張することは決して団結を乱すものではないと思います。むしろ健全だと思います。本当の団結って違うと思いますよ。面と向かって「ハイそうですか」で済めばいいです。 しかし、現実は掲示板を見ていてもそうですが妨害と思われる投稿も散見されます。これが現実に最前線の会員が大幹部に向かって面と向かって指摘をしたら少なからず「ハイわかりました」にはならないでしょう。少なくとも私の友人は昨年、幹部を糾して呼び出されたそうです。 ある意味、こうしたネットの環境も一つの手段だと思います。 >しかし監視が掲示板では、あまりに短絡的思想。戸田先生の指導とは異なります。 ?闘う舞台が掲示板では、あまりにお粗末。 ここには、いつでも敵が紛れ込み、空気を吹き込む事は至極簡単な事。 ましてや、最高幹部や、議員の悪口を言えば「闘った人」として、通行手形が発行されます。敵からすれば簡単で、面白くて仕方がないのです。 その様に、敵にも簡単に利用されやすい掲示板には、広宣流布という崇高なる闘いは、到底できない事は何方でも理解できます。 ●そもそも、コチラの掲示板は情報の発信基地との位置付けでは? また、それこそ責任のすり替えではないですか? 敵に利用され、批判の根源を作っていることを問題とするべきではないですか? また、声を挙げるべきと思います。 今、最前線の現場では顕正会も法華講も自前の機関紙と会長の会則変更の記事に線を引っ張ってコピーしてばら撒いてますよ。 ばら撒いているのは教学部レポートではありません。 敵に利用されているのは聖教記事ですよ。 本当に現場のことわかってますか? その論理からすれば敵に利用されるような会則の変更をした会長並びに執行部は悪なのでしょうか? >その掲示板に、学会員を糾合しようとする場合は、結果的に創価学会壊滅、公明党壊滅への手助けとなります。 ●そもそも現場の現実を見直す必要もあると思いますし、私自身、今回の公明党の動きについては納得をしておりません。 その諸悪の根源を絶つことが大事ではないですか? 私は創価学会が好きです。先生が好きです。 家族が大切です。 だからこそ現場でも声を挙げております。 >悪の元に団結しては当然悪になります。 ?池田先生は原田会長の元、団結していきなさいと仰られています。 どうするのですか。 ?師匠の指導は、無視されるのでしょうか。 ●昭和54年4月25日聖教の先生からのメッセージの見出しに 「新会長中心に信頼と安定の学会を」とありました 北条会長を中心にすることが先生の本意だったのでしょうか。 確かに私も原田会長を中心にと聞きました。 私も正しくあれば会長中心で良いと思います。 いや、そうでなくてはならないと思います そして、こちらの掲示板で昨年の夏ごろの投稿では、まだ信濃町の人びとさんも会長に正しい情報が入っていないとして、それほど会長そのものを批判はしていなかったと思います。 しかし、11月8日の会則変更記事をうけて、それは糾すべきと私も思いました。 それこそ、たとえ会長であったとしても、「時の貫主為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事」と我々は糾すべきではないでしょうか。 少なくとも先生から今回の会則変更に関して可とする御意思を明確に発信されない限り、過去を僧俗和合のもとに歴代会長指導やそれまでの学会教学を否定するような今回の変更のあり方には声を挙げるべきと思います。 教学部レポート、遠藤文書を見たならば、心ある会員は受け入れられないと思います。それどころか両文書を見る限り先生は了解されていないではないですか。 アナタが言うようにたとえ会長であったとしても先生の意に反する判断をしたならば悪であり、悪の元に団結してはならないと思います。 アナタも「勘違いした幹部による悪行を糾弾せよと、池田先生は仰いました」と認識されていると思います。 アルベアさんに愚考と言われるかもしれませんが、私は悪いものは悪いと主張することは決して悪いことだとは思いません。 ●アルベアさん初めまして アルベアさんの投稿、大変に勉強になりました。 しかし、実践に移すとなると中々難しいですね。 失礼ながら私はアルベアさんご指摘の愚考であることを誇りに思いますし、感情のある愚かな人間です。 >自身の生命の腐敗に気づけないで、外界にある腐敗を追及している。(意識の投影)意識が反転して起きていることを指摘しても「わからない」のです。 ●でもこれって、正義の走者さんも仰ってましたけど「地湧の自覚と実践によって発迹し、その行のところに穢土即寂光の本地本身を自身と顕本す。」と我々が成すべきことではないのでしょうか。 失礼ながら、私の感覚的には最近のアルベアさんの投稿は二乗の臭いがします。 最初の頃はアルベアさんの投稿が好きでした しかし、正直、今は嫌いです。 私は御本尊を信じております。 また、先生が大好きです。 喜怒哀楽のある人間です。 動物的といわれ、愚かと言われるかもしれませんが、私は一人の信仰者であり、信心をしております。 愚考といわれても、そこから自身の人生に真正面に向き合って 御本尊に題目をあげにあげて穢土のような環境を楽しめる寂光へと変えていくことに魅力と強さを感じます。 また、全ての会員がそのように幸福になると本当に嬉しいです。 本当の意味で、信仰の持つ強さってそこじゃないのかなと。 我々は本化の菩薩であり、諸難をもこの人生を楽しむスパイスに転じることができるのではないのでしょうか。 しかし、現実の現場は悲しい話も多々あり 心を病んでしまったり、自ら命を断つことも… やはり、教学って本当に大切なんだと思います。 そして、人と関わることも。 困った人を人材に育ててきたのが私の好きな学会です。今は簡単に組織から干されます。 それが横行している現実は否定できません。 だからこそ、生の声を大きく、様々な手段を用いて挙げるべきと確信しております。 久しぶりの投稿でしたが、批判ばかりですいません。 いつも、皆様の投稿に勇気を頂いております。 ありがとうございます。 私も現場で一人でも多く、一人一人に着実に語って参ります。 また来ます。 Tweet