2014年12月31日 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2014年12月31日(水)10時42分4秒 「生も歓喜、死も歓喜」とは、池田先生の達観ですが、口まねだけなら誰にでも言えます。 これは私の体験に基づくものですが、詳しい内容は避けたいと思います。ご了承ください。 私は青年期、一〇〇%「死ぬ」運命でした。もちろん自分の悪業ゆえです。 恐怖の極限状態ではありましたが、死を眼前にしているにも関わらず、私はやけに冷静でした。 命乞いもしませんでした。 その時、どうせ死ぬんだから、題目を上げ抜いて死のうと決めたのです。 そして三日間一睡もせずに題目をあげて死を待っていました。 しかし、そこで不思議な体験をしたのです。結果的に今生きています。 報恩抄に「日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり。 無間地獄の道をふさぎぬ」(三二九頁)とありますが、 この日蓮大聖人の民衆を慈しむ大慈悲の心に振れた時、泣けて泣けて仕方ありませんでした。 その不思議な体験が自身の原点となりました。 話は、変わりますが、多くの死がある中で、自分がある種の死に方を選択するということは、 自らの死というものを考え、死と向き合わねばできないことだと思います。 つまり「殉教の覚悟」とは「死に方」の選択です。 しかし普通の会員は、誰もが死と隣り合わせに生きているのに、自らの死は考えないものです。 ただ、誤解してほしくないのは、自殺や暴発的な生き方は、 死と向き合うことからの逃避であり、死に方の選択とは違います。 どんなに邪魔をされ、迫害されても、一歩も後へは引かない、また引けない。 この身が死のうとも、自らの信心だけは破られない。 このような強い生き方は、逆に自分自身の死と向き合って初めて生まれてくるものではないでしょうか。 Tweet