投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2014年12月28日(日)16時32分38秒  

私たち会員の教学研鑽もまた、羅什と同じ方程式に則り、
御書という経典を手にし、講義形式をとり、ある時は質疑応答の形式をとり、
ある時は個人指導の際に、人々の呼吸を感じながら、対話の場で仏法を展開していくのです。

仏教の創始者である釈尊も、その生涯は庶民の苦しみに寄り添い、
人生の苦との対決のなかから、珠玉の如き教えが残されていきました。

八万法蔵といい、五時八教といっても、精密に体系付けた教理を、
カリキュラムに沿って釈尊は説法していったのではありません。

釈尊の説法は、貧苦にあえぐ庶民への激励であり、
病に苦しむ老婆を背負う思いの同苦の言葉であり、
精神の悩みに沈む青年への温かな激励の教えでした。

差別に悩み、カースト制度に苦しむ大衆の側に立った火のような言々句句が、
その一生の教化を終えてみれば八万法蔵として残っていたということなのです。
それは、経文が徹底して問答形式で説かれていることに象徴的に表れています。

庶民と対話し、行動の中に釈尊の悟りの法門が迸(ほとばし)り出て、
それが経典としてまとめられていったのです。

日蓮大聖人も、同じ立場を貫かれています。

あの膨大な御書も、生涯、激励の日々のなか、民衆一人一人との対話を続けられ、
朝に夕に救済の手を差し伸べられた結晶です。

大聖人も決して書斎に閉じこもって御書を著したのではありません。
戦いながら書き、語り、書き、語られながら戦われたのです。

仏教は、その誕生からすでに、実践のなかに生き、
民衆の中で生き生きと語り継がれてきたのが、正統な流れであると思います。

御書には「行者、仏法を弘むる用心を明さば、夫れ仏法をひろめんとをもはんものは、
必ず五義を存して正法をひろむべし。五義とは、一には教、二には機、
三には時、四には国、五には仏法流布の前後なり」(四五三頁)とあります。

これは、仏法を弘めていく心得として、
五つのことを配慮して弘めていきなさいという意味です。