投稿者:信濃町の人びと   投稿日:2015年 6月 4日(木)08時27分13秒     通報 編集済
池田大作全集78巻より
青年部・教学部代表協議会 (1991年9月20日)⑥

■「悪鬼入其身」の本質を″信心の眼″で

ところで、「其の身に入る」と大聖人が仰せのように、「入其身」は仏法の大切な生命観である。「悪鬼入其身」の場合にふれると、大聖人は、第六天の魔王が法華経の行者を迫害するために、智者や権力者の身に入ると仰せである。

その時、「形は人なれども力は第六天の力なり」

――姿、形は人間だが、(動かしている)力は第六天の魔王の力である――
と本質を教えてくださっている。

「形は人なれども」――姿は、たとえどのように見えようと、その本質は魔王である。この一点を見誤ってはならない。

第六天の魔王とは、生命の「元品の無明」の現れであり、それを切るには「信心の利剣」しかない、と説かれる。ならば、剣を抜かねばならない。

「 つるぎ剣 なんども・ すすまざる不進 人のためには用る事なし、法華経の剣は信心の けなげ勇 なる人こそ用る事なれ」

――剣なども、勇気のない人には無価値である。法華経の剣は、勇気ある信心の人こそ用いることができる――と大聖人は教えられている。

また、「法華経はよき つるぎ剣 なれども・つかう人によりて物をきり候か」

――法華経は良い剣だが、使う人によって、切れるかどうかが決まる――と仰せである。

大切なのは「勇気」である。何ものも恐れないのが「信心」の心である。

「勇猛」の人には、諸天も威光勢力を増して守りに守っていく。

「声は力」「文は剣」である。

青年部、教学部は、正義を語りぬいた歴史を残していただきたい。

これは悪の「入其身」であるが、釈尊、諸天等の善の「入其身」も、形は人であっても、力は釈尊、諸菩薩、諸天の力である。表面の姿にとらわれて、その尊貴なる本質を忘れては、たいへんな過ちとなろう。

御書には、このほか修羅が「入其身」した「他に勝ちたい一念」の邪宗の僧、梵天、帝釈が「入其身」した蒙古の王、その他が説かれている。
■「何千、何万の梵天、帝釈が一人の学会員を守る」

「入其身」といっても、十界互具である以上、本来は、すべて、わが生命にも具わる働きである。
戸田先生は、教えられた。(『戸田城聖全集』第二巻、第六巻)

「その神々(=諸天善神)は、どこにいるかということになります。神社にいるかというと、神社にはおりません。われわれの体のなかにいるのです」

「なにか困ると、梵天、帝釈が働くのです。向こうからきて助けるのではなく、こっち(=己心)にあるところの梵天、帝釈が働きだすのです。南無妙法蓮華経に照らされて、御本尊様のほうの梵天と帝釈がこっちに感応してくる。だから梵天、帝釈が働かざるをえなくなるのです」

「諸天善神というものが、梵天、帝釈一人しかいないものだとするならば、みなこれだけの人が東の方を向いてやっているのです。時間が違っているから忙しくてしようがない。ひとりで走り回らなければならないことになる。

そうではないのです。こっちにいる人が出て行って、そして仲間を呼ぶのです。梵天だって一人ではない。帝釈だって一人ではない。何千人何万人といるのです。それだけいるのだから、みな集まってきます。そして、その人ひとりを守るのです。それが法華経の諸天善神です」と。

「何千、何万の梵天、帝釈が皆集まる」

――皆さま一人一人のために、諸天がこぞって来集するのである。「信心」さえ確かであれば、諸天が動かないはずがない。働かないはずがない。乗り越えられない山などあるはずがない。

「御義口伝」等には、さまざまな角度から、「神」といっても、己心の仏界の働きであると論じられている。

また太田左衛門に対しては、世界悉檀(世間一般の義に一応したがって法を説く)のうえから、″ 神内しんない ・ 神外しんげ ″とも教えられた。

「神内と申す時は諸の神・身に在り万事心に叶う、神外と申す時は諸の神・識の家を出でて万事を見聞するなり」

――「神内」という時は、諸神が身の内にあって、何ごとも心のままになる。「神外」という時は、諸神が「識の家」(人間の心身)を家出し、(他国に遊びに行って)いろいろ見学したりしている(そこで厄年などという)――。

妙法を持った以上、私どもは、いつも「神内」である。生命の″内″に諸天のエネルギーが充満している。広布の組織もまた、そうでなければならない。

そして、たがいに諸天善神となって、守り合い、仏界の力を増幅していく。そこに、広々とした、いわば成仏へと人々を導く生命の″磁場″がつくられていく。それが広布の和合僧である。

■会員を尊敬、仏敵とは戦う

さて、戦いにあたっては、わが身に、諸仏、諸天を「入其身」させる決意で、強く行動すべきである、と大聖人は仰せである。

「弥三郎殿御返事」には、権力者の前で堂々と正義を主張する心構えについて″不惜身命″を教えられ、

「釈迦・多宝・十方の仏・来集して我が身に入りかはり我を助け給へと観念せさせ給うべし」

――″釈迦・多宝・十方の仏よ、集い来って、わが身に入りかわり、われを助けたまえ″と一念を定めなさい――と仰せである。

諸仏を″動かす″どころか、わが身に諸仏を「入其身」させ、満々たる″仏界のエネルギー″で勝負に勝て、と厳しく教えておられる。諸仏が入其身したならば、所従(家来)の諸菩薩、諸天等が従ってくることは当然であろう。

このように、″諸仏の入其身″を論ずることは、決して傲慢ではない。それは大聖人御自身が、″そうでなければならない″と強く教えられたことなのである。

同様に、学会員に諸仏、諸天の働きを見ることも、御書に照らせば、決して不遜ではない。むしろ、御書の仰せをないがしろにして、感情で我見を押しつけることほど、不遜で傲慢なことはないであろう。

「三類の敵人(強敵とと説かれるように、仏法には敵がいる。敵と味方を、よくよく知らねば広宣流布の勝利はない。

「かたきをしらねば・かたきに たぼらか誑 され候ぞ」

――敵を知らねば、敵にたぼらか(たぶらか)されますよ――

と大聖人は警告してくださった。

だれが自分の味方なのか。だれが広布の味方なのか。だれが人間性の味方なのか。はっきりと見極めねばならない。

そして仏法の敵とは断固、戦い、味方は最大に大切にする、それが大聖人の教えられた道である。

幹部も、学会の友を最大に大切にせねばならない。最大の満足を与えてあげる努力が自身の仏道修行となる。

また一面からいえば、敵は必要ともいえる。

「かたきのなき時はいつわりをろかにて候」

――敵がいない時は、いつわった愚かな姿のまま安穏に過ごせる――。

これは法華経の行者がいないうちは、他宗の者もいいかげんでいられるという意味である。

そのうえで、私どもも、敵がいるからこそ「いつわり」「愚か」ではいられなくなる。その分、鍛えられ成長する。″本物″になり″賢明″になっていく。″敵″は成仏の必要条件でさえある。

「僣聖増上慢」はじめ「三類の強敵」と戦ってこそ、成仏の永遠の幸福境涯が開かれる。

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