投稿者:信濃町の人びと   投稿日:2015年 6月 2日(火)22時28分39秒     通報 編集済
そもそも仏典の成立は如是我聞です。

如是我聞の意義について、池田先生は「法華経の智慧」
で以下のように展開されています。
仏が説かれた内容が何か。それを知るのは、信心と師弟につきるのです。

(以下、引用)
しかし、いかに法華経の「文」と「義」を論じても、その「心(意)」に触れなければ意味はない。大聖人は、結論的に「法体とは南無妙法蓮華経なり」と仰せである。
「法体」「諸法の心」とは、二十八品全体に脈打つ「仏の智慧」そのものです。その智慧が「南無妙法蓮華経」です。
それを「その通りに聞く(如是我聞)」とは、「信心」です。「師弟」です。師匠に対する弟子の「信」によってのみ、仏の智慧の世界に入ることができる。「仏法は海の如し唯信のみ能く入る」と、天台の『摩訶止観』にある通りです。
この観点から言えば、法華経の「如是我聞」とは、全生命を傾けて仏の生命の響きを受け止め、仏の生命にふれていくことです。「如是」は、「その通りだ」と聞き、生命に刻んでいく信心、領解を表している。また、それが全人格的な営みだからこそ「我聞」とあるのです。全人格としての「我」が聞くのであって、単に「耳」が聞くのではない。
また、この「我」とは、普通は、経典結集の中心者とされる阿難等です。しかし、その「心」は、末法の今、この自分自身が「我」である。自分が、日蓮大聖人の南無妙法蓮華経の説法を、全生命で聞き、信受していくのが「如是我聞」の本義なのです。