池田先生の指導①
投稿者:河内平野 投稿日:2014年 9月 8日(月)12時53分3秒 返信・引用

歩むべき「正しき道」を知っている人は幸福である。道に迷い、道を見失った人生は闇である。
ジャングルをさまようように、苦悩の足取りとなろう。
きょうもまた、多くの人々のため、後世ために、広宣と人生の「道」について、何点かにわたり語っておきたい。

最初に、根本である御書を拝したい。私どもは、つねに、御書を学び、御書を基準に、日蓮大聖人の仰せどおりに進む。

仏法は道理である。道理は万人に《明快》なものである。これに対し、詭弁は複雑になりがちである。
煙幕を張ったように、もっともらしい、へ理屈を組み合わせる。しかし、道理の《太陽》が昇れば、それらの《霧》はすべて晴れていく。私どもには御書の明確な基準がある。その光に照らして、万事、明確に判断していけばよいのである。

厳然たる「事実」の前には、後からつけたどんな理屈もむなしい。言葉で事実を消すことはできない。
私どもが、「広宣流布」を大きく進めてきたことは議論の余地のない事実である。
その前進のなかで、一人一人が幸福の実証をつかんできたことも、だれ人も否定できない。

さらに、大聖人が仰せのごとく、つまらぬ言いがかりにいちいちつきあって、煩わされる必要もない。
真摯な対話を求めてくるのならともかく、最初から仏子を苦しめ、揚げ足を取ろうとして近づいてくる邪な論難に、振りまわされる必要はない。

私どもには大聖人がついていてくださっている。面倒なことは「大聖人にうかがいなさい」と笑って言いきればよいとの御指南である。今でいえば「御書を読んでください」「御書のとおりですよ」と言いきっていけばよいのである。

戸田先生もよく言われたが、私どもは、いわゆる《宗教のための宗教屋》などではない。
自身のため、そして民衆の幸福のために信仰したのであり、大聖人の仏法を根本として、人生に、生活に、社会に、すべてに勝利し、豊かに価値創造しゆくために行動しているのである。

一切を御書に照らしながら、低次元の難くせなど笑いとばし、おおらかな心で余裕しゃくしゃくと進んでまいりたい。

【霧ヶ峰・第三回研修会 平成三年七月二十七日(全集七十七巻)】