投稿者:河内平野 投稿日:2014年 9月 7日(日)14時52分57秒 返信・引用

はじめに、「うわさ」の心理について考えてみたい。
作家・芥川龍之介の出世作は、短編小説『鼻』である。
夏目漱石に絶讃され、彼はここから文壇に躍りでた。説話集『今昔物語』等を題材にした、平安時代の話である。

――京都に一人の僧侶がいた。彼は「鼻が長い」ことで有名であった。二十センチ近くのソーセージのような鼻が、顔のまん中からぶらさがっている。食事をするときも一人では食べられない。おわんの中に鼻の先が入ってしまう。

そこで、弟子の一人を使って、細長い板で鼻を持ち上げてもらいながら食べる。不便で仕方がない。一度など、弟子がくしゃみをして板がふるえ、熱いお粥の中に鼻を落としてしまった。

彼はつねにこの鼻を気にかけていた。人々がみな笑っているような気がしてならなかった。また実際、人々は何かと彼の鼻のうわさ話をして、自分たちの憂さを晴らそうとした。

彼はなんとか安心したかった。寺に出入りする人々を見ては、自分と同じような長い鼻の人間はいないかと、根気よっく探した。いないとなると、過去の《大人物》の中に、長い鼻の人を探した。だが舎利弗も目連もみな、ふつうの鼻であった。

他の人に自分と同じ欠点があったところで、自分の鼻がそのぶん短くなるわけではない。にもかかわらず、いつも彼は《同類》を夢見、探した。
また積極的に、鼻の短くなる方法も試してみた。いかがわしい薬も飲んだ。ネズミの尿を鼻につけたこともある。
全部うまくいかなかったが、やがて耳よりの情報がきた。お湯で鼻をゆで、ゆだった鼻を人に踏ませる。これを繰り返す――という治療法である。

さっそく、やってみようとしたが、ふだんから「自分はこんなつまらないこと(=鼻のこと)など、まったく気にしていない」というそぶりをしていたので、自分からは言いだせない。それとなく、弟子の小僧のほうから勧めてくれるようにしむけた。

治療は成功した。アゴの下まで垂れ下がっていた鼻は、短くなり、上唇の上までになった。「これでもうだれも笑わないだろう!」。彼は鏡を見て満足であった。

ところが、二、三日たつと妙なことに気づいた。訪れた人々が、前よりもいっそうおかしそうな顔をして、じろじろと彼の鼻を見つめるのである。表向きは、笑いをこらえながら、陰でくすくす笑い合っているようだ。彼は「これなら前のほうがよかった」とふさぎこんだ。

作者(芥川)は、『鼻』の中でこうした人々の心理を「傍観者の利己主義」と呼んでいる。
他人の不幸に同情しないわけではないが、その人が不幸を克服すると、今度は何となく物足りない。それどころか、かえってもう一度、不幸につき落としたくさえなる。いつのまにか、ある種の敵意すらその人(幸福になった人)にいだくにいたる――と。

俗に「不幸に同情してくれる人は多いが、幸福をともに喜んでくれる人は少ない」という。無意識の嫉妬が働くからであろうか。

――先日、アメリカ・ハーバード大学のナイ教授と会談したが、ハーバード大学では、
「われわれは行動する人間を育てる。『傍観者』や『見物人』、他人の苦労を口うるさく批評する『評論家』などを養成するつもりはない」との精神という。

世界の一流の人材を輩出してきた最高峰の大学にふさわしい理念である。私は、さすがであると感銘した。
傍観者は、どこまでいっても傍観者である。何の創造の労苦もなく、人の揚げ足とりに熱中する。身につけた知識も、それでは何の価値も生まない。むしろ害毒とさえなろう。

「傍観者の利己主義」がはびこってしまった社会は不幸である。たとえ分野が異なっても、「行動者」同士は話が通じる。
人類と社会への責任感をもっているからである。しかし「傍観者」「見物人」には責任感がなく、ゆえにいくら多く集まっても価値を創れない。

また人生の主体者ではないゆえに、真の充実も幸福もないであろう。
「行動する人間」には、当然、苦労も大きい。無責任な批判も多い。しかし、生命の底からの充実と満足は、その人のものである。

鼻が短くなったのに、周囲が喜んでくれるどころか、冷笑するのを見て、僧は後悔した。
彼が、不機嫌なのを見て、周囲はますます陰で悪口を言った。彼は苦りきった。

――ある夜のこと、鼻がむずむずする。熱も出てきた。すると翌朝、鼻がもとに戻っていた。昔のとおりの長い鼻である。彼は内心、小躍りした。
「これでもうだれも笑わないだろう!」鼻が短くなった時と同じ、晴ればれとした気持ちであった。――物語は、ここで終わる。

【「長野県婦人部の日」記念研修会 平成三年七月二十六日(全集七十七巻)】