投稿者:信濃町の人びと   投稿日:2015年 5月 7日(木)16時48分59秒     通報
池田大作全集78巻より
学生部・教育部合同総会 (1991年9月3日)①
(河内平野様が昨年9月に一部を紹介されていますが、全文を掲載します)
「教育」は開かれた″人類救済の王道″

今年は、牧口先生のご生誕百二十年
(一八七一年〈明治四年〉六月六6日生まれ)。初代会長牧口先生はご存じのとおり、後世に残る偉大な教育者である。

私ども創価学会(発足当時は創価教育学会)の創始者が大教育者であったことは、先生のご一生を知れば知るほど、決して偶然とは思われない。深い意味を感じてならない。

その牧口先生について、日淳上人は、

「一切法是仏法」(=御書五六三ページに『摩訶止観』の文「一切法は皆是仏法なり」〈大正四十六巻〉が引かれている)の法理の上から、

「先生(=牧口初代会長)には宗教は即教育であり、教育は即宗教であったのであります」(昭和二十二年十月十九日、創価学会第二回総会。『日淳上人全集』と述べておられる。学会を深く理解してくださった宗門の先師であられた。
日淳上人はさらに、「法華経に、遣使還告の 薩埵さった (菩薩)ということがありますが、仏の道を教育に於て実践された、此れが先生の面目であると私は深く考えておるのであります」(同前)と、仏法の眼から、教育者としての牧口先生をたたえておられる。

牧口先生が歩まれた「教育の道」はすべて、広宣流布のための「仏法の道」に含まれるとの意であろう。

その牧口先生の″孫弟子″である私も、仏法基調の「平和の道」「文化の道」「教育の道」を、世界に壮大に開いてきた。

あらゆる苦難と戦い、また″世界の英知″″世界の指導者″と友情のネットワークを広げながら、万年の広宣流布のための大道を築いてきた。私どもの実践が、すべて「菩薩の道」であり、「仏の道」の実践であることは、日淳上人のお言葉に明らかである。(拍手)

今や牧口先生の「創価教育学」は、いよいよ世界の国々から、世界の大学者から、注目されるようになってきている。
見る人は見ている。公平である。また真剣に求めているから、パッとわかる。むしろ皆さまのほうが、偉大さを知らないかもしれない。(笑い)

先日も紹介されたが、鳥取大学の佐伯友弘教授も、牧口先生の思想を高く評価するとともに、牧口先生が、″近代教育学の父″と呼ばれるコメニウスに相通じるところがあると称讃されている。
(佐伯氏は、八月十一日、鳥取県教育部の人間教育実践報告大会に来賓として出席されあいさつ。その内容は同二十五日の海外・各部代表協議会でも紹介され、二十七日付「聖教新聞」に掲載)

宗教改革者として出発したコメニウスが、弾圧によって亡命生活を余儀なくされながら、教育による社会変革を志し、『大教授学』という著作を遺した生き方。

一方、宗教革命のために権力の不当な弾圧で獄死しながら、後世のために『創価教育学体系』を遺された牧口先生の生き方。

この東西の二人の生き方が重なって見えるという指摘である。
東洋と西洋の間には、こうした、共通性のある人物が現れることがある。

十七世紀、イギリスにニュートン(一六四二年~一七二七年)が現れれば、日本には数学者の関孝和(一六四二年~一七〇八年。関の数学理論は当時のヨーロッパの水準と比べてもまったく遜色ないといわれる)が出るように――。

また、両者の思想の内容にも似通うところがあるようだ。牧口先生も、『創価教育学体系』の中で、コメニウスを「教育改革家の先輩」とたたえている。

教育改革者コメニウスの不屈の闘争

さて、コメニウスは一五九二年に生まれた(没年は一六七〇年)。ちょうど明年、生誕四百年を迎える。出身地はモラビア。現在のチェコスロバキアの一地方にあたる。

チェコスロバキアには、私も、昭和三十九年(一九六四年)十月に初訪問している。また友人には、視聴覚芸術の国際的権威であるフリッチェ教授(芸術センター教授)らがいる。
教授とは昨年もお会いしたが(一九九〇年十月二十一日、関西文化祭に出席のさい。七五年、八三年に続いて三回目の会談)、″ぜひ、チェコスロバキア訪問を″と何度も語っておられた。東欧にもSGI(創価学会インタナショナル)の理解は広がっている。(拍手)

コメニウス当時のチェコは、長い間、他国の支配に苦しんでいた。また、ヨーロッパ全土を巻き込んだ宗教改革と、それに続く宗教戦争の嵐は、チェコでも激しく吹き荒れた。

とりわけ、外来の支配者(政治権力)は、既成の「宗教権力」と結び、改革派を力ずくで抑えつけようとしたため、国内の対立はいっそう深まっていた。
(チェコは、一五一七年に始まるルターの「宗教改革」より一世紀も早く、「教会改革」が試みられた先駆の地。その指導者であるフスは異端とされ、一四一五年、火刑に処された。コメニウスはこのフス派の流れをくむ信徒団体「ボヘミア同胞教団」の一員であった)

政情の不安と相次ぐ戦乱。コメニウスの青年時代には、有名な「三十年戦争」(一六一八年~四八年)が勃発している。一説によれば、この戦乱により、モラビアとボヘミアの人口は四百五十万から百万まで激減したという。

どこの国であれ、どんな時代であれ、権力者の手段にされて苦しむのは、結局「民衆」である。

いつまで、そんな愚行を繰り返すのか。もう、そうした人類の宿命は絶対に転換しなければならない。そのために諸君がいる。(拍手)

こうした激動の時代を、コメニウスは「宗教改革の闘士」「民衆の教師」として、新しい「人間変革の道」「宗教改革の道」「教育改革の道」を歩んでいった。

コメニウスの行く手には、当然のごとく、既成の勢力の壁が立ちはだかった。棚津も受けた。「改革者」と「反動」との対決――いつの時代も、この構図は同じである。

彼は、三十六歳から、死ぬまでの四十二年間、亡命生活を強いられる。権力者や聖職者たちによる、事実上の国外追放であった。その苦しみ、半生を異国の地に送る″流浪の旅″――少々の悪口など、比較にならない。

だが、コメニウスは退かなかった。戦い続けた。すべてを新たな飛躍へのバネにした。そこにこそ、彼の偉大さがあった。

彼は、ポーランド、イギリス、スウエーデン、ハンガリー、オランダと、ヨーロッパ中を駆けめぐる。各国の著名な学者や有力者たちと友情を築き、連携をとりつつ、正義のネットワーク、平和のネットワークを広げていった。

――わが使命ある限り、愚痴はなかった。後退もなかった。彼を追い出したつもりの、堕落の権力者や、狂信の聖職者たちとは、まったく次元が違っていた。そうした人間たちを、堂々と見おろしながら、彼は、前へ、つねに前へと、わが道を進んだのである。

生きている限り、必ず何かを為す。成し遂げる。圧迫があるほど、かえって闘志を燃やし、道を広げていく。それが、人生の真髄である。信念の勇者の魂である。

まして、「革命児」といい、「学会精神」を口にするならば、みずからが獅子でなければならない。

「羊千匹より獅子一匹」と。
それが牧口先生の遺訓でもあった。私もまた、この心で戦ってきた。口先だけの者は、ご存じのとおり、背信者として皆、去っていった。彼らは組織の偉大さに安住していた。

保身を微塵でも考えるようになったら、殉教の牧口先生、戸田先生の弟子とはいえない。学会精神の崇高さ、峻厳さを、いささかもおろそかに考えてはならない。

コメニウスの鋭い眼は、当時の堕落した聖職者たちを、次のように赤裸々に描き、批判している。
「私は彼ら(=聖職者)が宗教の奥儀をきわめ、祈念しているだろうと思ったのに、羽根ぶとんにくるまって高いびきで眠っている者がいるかと思うと、酒宴を開いて、あらゆるものを口がきけなくなるほどのんだり食ったりしている者がいる。

他の者は踊ったり、はねたりしている。他の者は財布や金庫を部屋の中につめこみ、他の者は浮気と涯乱におぼれている」(『地上の迷官と魂の楽園』。ここでの引用は、堀内守『コメニウス研究』福村出版から)と。

さらにコメニウスは、聖職者たちが、偶像をちらつかせて金儲けをしている実態をあばき、こう言い放つ。

「思うに彼らは精神の(Duchovni)父と呼ぶのは疑問だ。金儲けの(Duchovni)父と呼ぶ方がふさわしい」(同前)

――なんと鋭い一言か。「悪」を打ち破る弁舌はこうありたい。(拍手)