投稿者:信濃町の人びと   投稿日:2015年 5月 3日(日)19時17分50秒     通報
先ほどの諸法実相抄とも関連します。
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小説『人間革命』 終戦前夜 より

人間から思想を取ってしまえば、根無し草のような肉体が、はかなく生存を続けるにすぎない。

だが、思想ほど恐ろしいものはない。一片の思想が、人びとを死に追いやることもある。思想は、いわば魔力を備えているのかもしれない。
しかも、さらに恐るべきことは、人びとは、自己の人生をかけた思想の正邪、善悪、浅深について、あまりにも無関心でありすぎた。今、戦争の指導理念に仕立てられた国家神道は、その無力を余すところなく露呈して、遂に悲惨な結末をもたらしてしまったのである。

戸田城聖の耳にも、終戦前後の重苦しい情報が、次から次へと入った。彼は、そのような話を聞くにつけ、信じるということの重大さを、あらためて思い返した。

″人間の営みのすべては、信じて行ずるということの反復、積み重ねにほかならない。何ものかを信じなければ、人間の行動は始まらないからだ。
ある特定の思想や宗教を、奉じている人もあろう。あるいは、科学や、医学や、技術を、万能とみる人もいるだろう。さらには、それぞれの勤める会社や、所属する団体や国家の主義に殉ずる人もある。また、そこまでいかなくても、肉親や、親友や、あるいは自己の信念に、忠実に生きようとする人もあるだろう。たとえ無神論者をうそぶいている人でも、無意識のうちに、何ものかを信じ、行動しているはずだ。

ところで、この世で最も忌むべきことは、誤ったことを正しいと信ずることだ。たとえ、どんなに善意に満ちていたとしても、また、どれほど努力を尽くしたとしても、そんなことには関係ない。信じたものが非合理で、誤っていた場合には、人びとは不幸を招かざるを得ないからである。個人のみならず、それを信じた集団も、社会も、国家も、全く同様である。

信仰とは、なにも遠くにあるものではない。特殊な人間のすることでもない。要は、信じるということに対する、自覚の浅深によるだけである。

人びとは、それぞれ信じているものの本質が、あらゆる視点から見て、絶対に誤りのないものであるかどうかについて、おそろしく無関心である。

正邪、善悪を不問に付して、いかにも平然としている。ここに、救いがたい不幸の根源があるのだ。

では、信じて誤たないもの、この世界で、絶対に間違いないと言い切れるもの、それはいったい、なんだろう。いくら信じ込んでも、欺かれることのないもの、なんの悔いも残らぬもの、そのようなものが、いったい、あるのかないのか……″
戸田は、それをはっきり断言できた。

″ある! 私は、それを知っている!

それを日蓮大聖人は、明確に、具体的に御教示くださっている。人びとは、それを知ろうともしなかった。

そして、七百年が過ぎ去ったのだ。今、さんざんな目に遭って、人類は、いずれそれを知り、信じるにいたるであろう。だが、この未曾有の敗戦の苦悩に遭い、不幸のどん底に沈んだ今、それを私一人だけが知っている。ほかに誰が知っているというのか。誰も知らないのだ″

戸田城聖には、今、語るべき一人の同志もいなかった。眼前にあるのは、国土の荒廃と、それにも増して恐るべき人心の退廃であった。何を目にしても、何を耳にしても、所詮、すべては彼の孤独感を強めるばかりだったのである。

彼は、暑さに汗を流したが、思い詰めた時の汗は冷たかった。彼の覚めきった心には、さまざまに繰り広げられる終戦の世相が、ことごとく狂気と映った。

彼は、広野に向かって、妙法流布の師子吼を放ちたい衝動を、抑えなければならなかった。それは、「時」を待たねばならないことを、知っていたからである。

″時を待つのか、時を創るのか……″
彼は、静かに考えた。

″一人の新たなる真の同志をつくる。それから一人、また一人とつくっていく。これが取りも直さず、時を創ることになる。今、一人の真の同志をつくることの困難は、やがて時来り、百万の同志を育てることよりも難しいかもしれない。焦つてはならぬ……″

彼は、直面している困難が、こんなことろにあることを悟った。

大聖人は、「日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人・三人・百人と次第に唱へつたふるなり、未来も又しかるべし、是あに地涌の義に非ずや、剰へ広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし……」と仰せである。

大聖人も、一人の真の弟子をおつくりになるという、その困難なことから始められたのだ。戸田には、大聖人が、建長五年(一二五三年)四月二十八日、三十二歳の時、立宗宣言をなされたころの御心が、よく拝察できるのだった。

″「未来も又しかるべし」である。七百年前、大聖人は、今日の、この戸田城聖のためにお書き残しにお書き残しになったのであろうか。そして、今や国亡び、広宣流布の条件は熟している。「地涌の義」がまことならば、今こそ、広宣流布の同志が輩出しなければならぬ。「一人、二人、三人……百人」と。

仏意は、計りがたい。今、広野に叫んだところで、声は風に消えていってしまうであろう。だが、現実に、敗戦という底知れぬ不安と、地獄の苦しみにあえいでいる民衆を目前にして、何をなすべきか……″

彼は、強く思った。

″眼前の一人ひとりを、完全に救いきっていくことだ。たとえ時間が長くかかっても、体当たりして、救っていくことだ。これこそ、「未来も又しかるべし」の御金言の実践である″