投稿者:信濃町の人びと   投稿日:2015年 5月 2日(土)17時27分59秒     通報
池田大作全集90巻より
「5.3」記念第33回本部幹部会 (1999年5月1日)①
婦人部の皆さまに最敬礼!

5・3「創価学会の日」、おめでとう! 「創価学会母の日」、おめでとう!

全国の皆さまと、晴れの日を祝賀したい。
「創価学会、万歳!」
「婦人部、万歳!」
「芸術部はじめ、全同志の皆さま、万歳!」

私どもの学会活動が、どれほど偉大であるか。
そこには、「歌」がある。「詩」がある。「対話」がある。「哲学の研鑚」がある。「友好の拡大」がある。

すべてが勉強であり、修行である。やった分だけ自分の力になっている。自然のうちに、自分自身を「全体人間」へと鍛え上げているのである。これほど素晴らしいことはない。(拍手)

「対話の時代」である。一方通行の時代は終わった。
学会の組織においても、幹部が「上から」一方的な話をしているのは時代遅れである。
皆、人間と人間である。庶民と庶民である。仏法は「皆が平等」である。

同志と同志が、手を取り合って、肩を組みながら、「さあ、語り合おうじゃないか!」「さあ、楽しくやろうじゃないか!」――これが真実の創価学会の集いであると思うが、どうだろうか。(拍手)

弘安元年(一二七八年)の「五月一日」のことである。
日蓮大聖人は、弟子にあてて、こう言われている。

「日月は地におち須弥山はくづるとも、彼の女人仏に成らせ給わん事疑いなし、あらたのもしや・たのもしや」

――たとえ、太陽と月が地に落ち、須弥山が崩れたとしても、(妙法を持った)あの女性が仏になられることは疑いない。なんと頼もしいことであろうか。なんと頼もしいことであろうか――。

「妙法を持った女性は必ず仏になる」との、大確信のお約束であられる。
また、大聖人は、ある婦人に対して、こうも仰せである。

「大風の草をなびかし・ いかづち雷 の人ををどろか
すやうに候、 よ世 の中にいかに いま今 まで御 しんよう信用 の候いける ふしぎ不思議 さよ、 ね根 ふかければ は葉 かれず・ いづみ泉 に玉あれば水たえずと申すやうに・御信心のねのふかく・いさぎよき玉の心のうちに・わたらせ給うか、たうとしたうとし」

――大風が草をなびかし、雷が人を脅えさせるような世の中にあって、あなたが今まで、この信仰を貫いてこられたことは、なんと不思議なことでしょうか!

『根が深ければ、葉は枯れず、泉に玉があれば、水は絶えない』と言われるように、あなたのご信心の根が深く、あなたのご信心に勇気の玉があられるのでしょうか。尊いことです。尊いことです――。

大聖人は、女性信徒の「勇敢なる信心」を繰り返し称賛しておられる。

今で言えば、学会の婦人部の皆さまである。御本仏が皆さまを最大にたたえておられることはまちがいない。世界一である。宇宙一である。
偉大なる「創価の母の日」、本当におめでとう!(拍手)

昨日(四月三十日)、婦人部の代表と懇談した。その際、こんな提案があった。

「五月三日の『創価学会母の日』には、ご主人が奥さんに、必ず何かおみやげを買っていくこと」

――男性の皆さん、どうだろうか?(笑い)

賛同を得たので、後日、全員の報告を聞かせていただく(笑い)。約束を破ったら幹部失格!(爆笑)

ともかく、壮年部、男子部の皆さんは、婦人部を大切にしていただきたい。
必ず何か贈る。何か与える
――何でもいい。心こそ大切なのである。

さらに、次の三点が議題にあがった。
「その日は、ご主人も、子どもも、何でも言うことをきくこと」。朝から晩まで、一日中(笑い)。

「その日は、とくに、奥さんの健康と長寿を祈ること」
「その日は、男性が、弘教も、聖教新聞の配達も啓蒙も、会合も、一切を引き受けて、女性は休むこと」
以上、四点を、本日この場をお借りして決定
――は、しないでおきますから(爆笑)、心をくんで、男性諸君、お願いします!

せめて一日くらいは、婦人部の皆さんが一人残らず(会合を終えて)帰るまで見送ってさしあげるとか、「ごくろうさま」と声をかけてさしあげるとか――。男性ならば、そのくらいの雅量がなければいけない。
「師弟」の魂から無限に力が

ここ東京牧口記念会館からも見えるが、新緑に包まれたロマンの丘に、「創価大学の本部棟」が竣工した。アメリカでは、カリフォルニアのオレンジ郡に、堂々たる「アメリカ創価大学」ができつつある。

すべて皆さま方の真心の応援の結晶である。つつしんで感謝申し上げたい。(拍手)
本部棟は、昨日、「引き渡し式」が行われた。十八階建ての高さから眺める「白雪の富士」は圧巻であったと、うかがった。

夜には、美しい満月が、「知性の殿堂」を照らした。絵に描いたような素晴らしい光景であったという。

明日(二日)は、お隣のロマンの赤き星「火星」が地球に接近する。今回は、八千六百五十万キロの中接近である。

かつて、『若き日の日記』(昭和三十一年〈一九五六年〉九月七日)に、「火星」が五千六百五十四万キロにまで大接近したことを書き留めた。
その年――昭和三十一年は、「まさかが実現!」と世間をあっと言わせた″大阪の大闘争″の年である。

私は大阪で、一人立って、指揮をとった。「絶対に勝ち目のない戦」と言われた。
私は、いつでも「いちばん厳しいところ」に行って、実践し、「いちばんすごい結果」を出してきた。

信仰は実践である。真剣な実践もなく、ずるく立ち回って偉くなった人間は、絶対に信用してはいけない。

戸田先生は、大阪の大勝利を、ことのほか喜んでくださった。

「大作、よくやってくれた!」と。
東京は敗北していた。
戸田先生をお守りすること
――私の祈りは、ただ一点であった。先生の経済的な苦境も、ただ一人で、お守りした。莫大な借金も、すべて返済した。

先生は心の底から私を信頼して、「大作、ありがとう!」「お前がいたから、おれは救われたんだ」「創価学会の会長ができたんだ」と感謝してくださった。

″大阪の戦い″が終わると、すぐに「山口闘争」を開始した。
山口
――戸田先生は、この「明治維新」の揺籃の地に、重大な布石を打とうとされていた。それを私に託したのである。

「大作、やってくれるか」「はい、やらせていただきます」
一瞬にして決まった。

(山口闘争は昭和三十一年の十月、十一月、翌年の一月と三カ月にわたった。九月末、四百五十九世帯だった山口県は、一月末には、四千七十三世帯へと十倍の飛躍を遂げた)

山口は、約四千世帯。
大阪は、一カ月で、一万一千百十一世帯。
すべては、中心者の指揮のとり方である。御本尊への祈りの一念である。

御本尊に、本当に「広宣流布」を祈り、本当に「師匠の言葉を、うそにしたくない、実現したい」と祈り、師匠に本当に喜んでいただきたいと祈って、結果が出ないわけがない。

日蓮仏法は、「広宣流布の信心」である。そこにしか、まことの信心は断じてない。そして、「広宣流布の師弟」である。師弟の心が一体になっての祈りが、かなわないわけがない。

山口でも、大阪でも、多くの同志が私とともに戦ってくださった。決して恵まれた環境ではなかった。交通費も全部、自前である。
私は、朝も昼も夜も、動いて動いて、戦って戦い抜いた。

当時、私は二十八歳。青春の力を、すべて広宣流布に注いだ。くたびれ果てて、靴を脱ぐ力もなく、倒れ込むように帰宅した日々もあった。遙かなる銀河を仰ぎながら、「いつ死んでもいい」――その決心であった。

そうやって「広布の地盤」を一つ一つ築いてきた。なまやさしい歴史ではなかった。そういう現実の道を経て、世界の創価学会ができたのである。後継の諸君は、決して簡単に考えてはならない。