投稿者:河内平野   投稿日:2015年 3月19日(木)13時22分32秒     通報
私どもは、常に御書を拝し、御書を仰ぐ。常に「大聖人根本」である。

御本仏の″末法の経典″が基準である。それが大聖人の真の門下である。

大聖人の仰せを根本としなければ、だれびとの言うことであろうと、すべて己義であり、ウソである。

仏法とは無縁の、自分勝手な作りごとにすぎない。

さらに大聖人は、こう仰せである。

「仏滅後二千二百二十余年今に寿量品の仏と肝要の五字とは流布せず。
当時、果報を論ずれば恐らくは伝教・天台にも超え竜樹・天親にも勝れたるか。
文理無くんば大慢豈あに之に過んや。

章安大師天台を褒めて云く
『天竺の大論尚其の類に非ず真旦の人師何ぞ労しく語るに及ばん此れ誇耀こように非ず法相の然らしむるのみ』等云云」

──仏滅後二千二百二十余年の間、いまだに法華経寿量品文底の仏と、肝要の妙法蓮華経の五字は流布していない。
(その大法を流布している)現在の(私の)果報を論じるならば、おそらくは伝教大師や天台大師にも超え、竜樹や天親よりも優れているであろう。

(みずからこう言うことは)文証・理証がなければ、これ以上の大慢心があろうか。
(しかし、きちんと文証・理証の裏づけがあるゆえに少しも慢心ではない)

章安大師は、(師の)天台大師をほめて
「インドの大智度論でさえ、それ(天台の法門)に肩を並べるものではない。
中国の人師の書など、どうして、わずらわしく語る必要があろうか。

これは誇り、おごっているのではない。
説かれた法理の内容が、そうさせるのである」等と言っている──と。

「日蓮又復是くの如し。竜樹・天親等尚、其の類に非ず等云云。此れ誇耀に非ず、法相の然らしむるのみ。
故に天台大師、日蓮を指して云く「後の五百歳遠く妙道に沾わん」等云云。
伝教大師、当世を恋いて云く『末法太はだ近きに有り』等云云。
幸いなるかな我が身『数数見擯出』の文に当ること悦ばしいかな悦ばしいかな」

──日蓮もまた、このとおりである。竜樹や天親等でさえ日蓮に肩を並べるものではない。
これは誇り、おごっているのではない。法理の内容が、そうさせるのである。

ゆえに天台大師は、日蓮を指して「後の五百歳(末法)に遠く妙法によって世は利益りやくされるであろう」と述べている。
また伝教大師は、現在の(大聖人の)世を慕したって「末法は非常に近くにある」と言っている。

何と幸せなことであろう。我が身(大聖人)は
「しばしば所を追われる」という経文に当てはまっている。なんと悦ばしいことであろう。なんと悦ばしいことであろう──。

文証・理証を離れて仏法はない。

「誇り、おごって言うのではない。法理の内容からの当然の主張なのである」と。

これが、御本仏の御確信であられた。
御書にも法華経にもないことを言うのであれば、まさに「慢心」であろう。

しかし、御書の通り、法華経の通りに実践する。

経文の上から、道理の上から、「正義」を堂々と主張する──それは慢心でも何でもない。

【全国青年部幹部会(全集第八十巻)】