投稿者:信濃町の人びと   投稿日:2015年 3月 5日(木)10時47分42秒     通報
うらら節健在ですね。ストレートなだけに地響きのようです。
ジャンヌダルクのようです。坂口総合婦人部長は、先生よりジャンヌダルクと言われたくらいの雄弁な方でしたが。どうしたものか。高柳さんも先日お見かけしましたが、随分小さくなっちゃったとかんじました。

見込みない人びと様の韓国繋がりと、やはり悪を糾弾する女性を讃えて、こちらを選びました。

池田名誉会長の人物紀行 「歴史の巨人」と語る
(2009.8.9付 聖教新聞)

第7回 韓国のジャンヌ・ダルク 柳寛順《ユ グワン スン》

乙女よ立ち上がる時は今!

「救国の乙女が
平和と幸福の礎
勝利の果実を我らに
もたらした」(森田稔訳)
ロシアの作曲家チャイコフスキーの傑作オペラ「オルレアンの少女(ジャンヌ・ダルク)」の一節である。
この世に、正義の信念に生き抜く乙女の声ほど、強く、尊く、美しいものはない。
15世紀のフランスには、ジャンヌ・ダルクが登場した。20世紀の韓国には、柳寛順が躍り出た。時代の光明は、尊き使命に舞いゆく乙女の生命から発する。そして今、創価の華陽の乙女たちが、人類から仰がれ讃えられゆく平和と正義のスクラムを広げている。

その乙女の像は、今まさに行進せんとする姿に見えた。
ソウルの奨忠壇《チャンチュンダン》公園の一角。優美なチマ・チョゴリを纏い、大きな松明を掲げて、足を踏み出している。何と誇りと勇気に燃えた顔《かんばせ》か!
「韓国のジャンヌ・ダルク」柳寛順の瞳は、澄み渡ったソウルの天空のもと、彼方の未来を見つめていた。
1990年の9月22日、ソウル・湖巌《ホアム》ギャラリーで、東京富士美術館所蔵の「西洋絵画名品展」が盛大に開幕した。韓国で初となる本格的な西洋美術展である。
その前日、同館の創立者として、私は少年の日より憧れの韓国に遂に第一歩を印した。文化大恩の国へ、芸術交流を通して、せめてもの報恩の道を開くことができ、万感胸に迫る思いであった。
開幕式の後、夕刻には帰国という過密な日程。その中、たまたま宿泊先近くの公園で巡り合ったのが、この柳寛順の銅像だったのである。

韓国の小学校では、彼女の讃歌が歌い継がれてきた。
♪やよいの空を仰ぎ見て
ユガンスン姉《ねえ》さん思い出す
牢の中でもマンセ《万歳》さけび
青空も見ず なくなった
…… ……
今もあの声きこえそう
青空見上げ 呼んでみる
(姜小泉作詞、仲村修訳)

愛する祖国が最も苦難の嵐に晒されていた時に、命を賭して立ち上がった乙女。その恐れなき音声は、人々の心に深く響き続けているのだ。

柳寛順は1902年(別説あり)、忠清南道《チュンチョムナムド》の天安《チョナン》郡に生まれた。3人の男兄弟と共に、兎を追い、栗拾いや茸採りをして、野山を駆け回る活発な少女だったようだ。
母・李少悌《イソジェ》は、近所の貧しい家と食べ物を分かち合う慈愛の女性であった。寛順も母の差し入れを携えて、使いに行くのを誇らしく思ったという。母から「思いやりの心」を受け継いだ寛順は近所の幼い子らの面倒をよく見る、心優しい乙女でもあった。

1910年、日本は恩義を踏みにじり韓国を併合する。それ以前から、悪逆非道な支配が、寛順の一家にも影を落としていた。
父・柳重権《ユジュングォン》は、志が高く、勇気ある教育者だった。地域の有志と独立を目指し、「民衆の啓発」に尽くした。「教育こそ祖国独立の基盤」との信条で、私財を抛って、興湖《フンホ》学校を創設したのである。
しかし、経営に行き詰まってしまった。日本人のあくどい高利貸しから借金をし、むごい取り立ての拷問に遭った父は、自らが運営から身を引くことによって、学校を守った。
この不撓不屈なる父の「信念の炎」は、愛娘・寛順の命に烈々と燃え盛っていった。

1916年、14歳になった彼女は、故郷の天安を離れ、ソウルの梨花《イファ》学堂(現・梨花女子大学の前身)の学寮に入った。彼女の村を訪れたアメリカの女性宣教師が、才能を見抜き、その推薦で給費生となったのである。多くの善意に支えられての学校生活に深く感謝し、報恩の心で真剣に学び、努力する寛順であった。
人の嫌がる仕事も自ら引き受け、皆から慕われる太陽のような存在と光っていった。
私には、親元を離れて寮や下宿で鍛えながら学ぶ、創価学園生や創大・短大生、アメリカ創大生、そして尊き留学生の友らの姿重なり合う。

最後の一人まで
時代は大きく動いていた。1919年2月8日、東京から独立運動の火の手が挙がった。これを契機に3月1日、ソウルで「独立万歳!」を叫ぶ運動が沸き起こった。それは地方ヘー気に拡大した。
万歳運動は、学生が先駆を切った運動である。と同時に、女性が決然と立ち上がった覚醒運動でもあった。封建制度の殻に閉ざされていた女性たちが、太極旗(韓国の国旗)を作り、次々と身を投じていったのだ。

「万歳」──それは、理不尽に蹂躙された祖国を断固と護り、人間の尊厳を示す命懸の魂の勝鬨であった。
学校が休校となり、寛順は天安に帰省した。陰険なる官憲の監視を前に、故郷の人々は、いまだ息を潜めていた。
わが故郷も、敢然と立ち上がる時が来た!
寛順は、独立運動を呼びかけるため、地元の有力者など周辺の村々を回り始めた。
乙女は訴えた。「自由をもてずに生きることは、生きていることになりません」
使命に燃ゆる寛順の熱誠の訴えに、一人また一人と、村人は奮い立っていった。
真剣の二字に貫かれた乙女の対話が、心を開き、心を掴み、心を揺り動かしたのだ。彼女は、20日間、数百里を歩き通し、語り抜いた。
「最後の一人まで!
最後の一瞬まで!」
運動の拡大に執念を燃やす寛順のモットーであった。

轟く「万歳!」
ついに、天安郡で最も大きな市が開かれる並川《ピョンチョン》市場で、決起する運びとなった。
決行の前夜。寛順は夜更けの暗く険しい山道を登った。翌日の独立運動の蜂起を確認する合図を発信するためだ。
息を弾ませながら頂上に着き、松明に火を灯す。高々と掲げ、暗闇に目を凝らした。
すると、四方八方の山々から、次から次へと蜂火が挙がっていった。その紅の光は24力所にも広がったという。
明けた4月1日の正午、並川市場には数千人の人々が続々と集まってきた。群衆の前に、ひときわ大きな太極旗が打ち立てられた。運動の主宰者が独立宣言文を読み上げたあと、柳寛順が壇上に立ち、演説を始めた。

「独立万歳の叫びは三千里の村々に欠けることなく伝わっています。我々が脱落していいものでしょうか、みなさん我々も独立をかちとるため万歳を叫びましょう」(姜徳相著『朝鮮独立運動の群像』青木書店)
話し終えた寛順は、声高らかに「朝鮮《チョソン》万歳!」と叫んだ。すると、仲開か太極旗を掲げて、「万歳!」と呼応した。それを、きっかけに、市場は「万歳!」「万歳!」の連呼が轟き渡っていった。

デモ行進が開始された。大きな太極旗を手に先頭に立つのは、寛順の両親である。
徹底した非暴力の平和的な行進だった。にもかかわらず、恐怖に駆られた官憲が小銃の引き金を引いた。この銃撃で、寛順の父・柳重権が倒れた。さらに残忍な無差別発砲で、多数の同志が犠牲となった。その中には寛順の母・李少悌もいたのである。
寛順は目の前で、最も尊敬する正義の父と母を相次いで奪われた。そして自らも、不当に囚われの身となった。

悪を見過ごすな

牢獄では過酷な拷問が続いた。しかし、いかに脅されようと、彼女は屈しなかった。
移送の車からも、編み笠を彼らされたまま、群衆に「独立万歳!」と叫び抜いた。
共に獄に入った同志が溜息をつくと、叱咤した。
「拷問がつらいといっても、悪逆を黙って見過ごしているよりも、楽なことではないか! 断じて戦おう!」
一人の乙女が、どれほど強靭にして、崇高な精神闘争を貫き通せるか。あまりに神々しき歴史が、ここにある。
秋が深まる頃、同じ牢の女性が別の部屋で出産した。赤ん坊を抱いて戻ってきた母親に、寛順は「おしめ」を手渡した。温かい。寛順が自分の体に当てて温めていたのだ。
彼女は一方的な裁判に臨んでも、祖国への誇りと正義の信条を堂々と言い放った。
だが残虐な拷問と栄養失調で、体の衰弱は激しかった。寛順は面会の兄に語った。
「物たりないけれど自分は義務を果したと思う」(『朝鮮独立運動の群像』)
1920年の10月12日、気高き一生の幕は閉じた。

乙女たちが命を抛って燃え上がらせた「三・一独立運動」の火は、中国の「五・四運動」に運動した。アジア・アフリカ諸国の独立運動にも、その精神の大光は広がった。
創価の父・牧口常三郎先生と戸田城聖先生が師弟の出会いを結んだのも、この時代であった。全世界の民衆が、自分自身の幸福の万歳を、愛する祖国の繁栄の万歳を、そして人類の平和の万歳を誇らかに叫びゆくためには、生命の尊厳と平等の大哲学が絶対に必要である。両先生は、いまだかつてない壮大な世界市民の連帯を築き始めたのだ。
日本の軍部権力と戦い抜いた師弟は、韓国そしてアジアヘの思いは格別に深かった。戸田先生が自らの獄中闘争を振り返りつつ、韓国の殉難の乙女たちの話をしてくださったことも忘れられない。その目には涙が光っていた。
私も、高等部や創価学園生に、折りに触れ語ってきた。

寛順の座右には、ジャンヌ・ダルクの伝記があった。ジャンヌの如く、永遠に光を放つ使命の青春を走り抜くことを固く決意していたのだ。
今、寛順ゆかりの梨花女子大学でも、創価の女子学生が母校愛を光らせ学んでいる。
韓国の国花は「無窮花《ムグンファ》」。その名の通り、夏から秋へ窮まることなく咲き誇る花だ。
韓国でも、日本でも、世界中で、華陽の友が「正義と友情の華の対話」を、朗らかに勇敢に繰り広げている。
一人ももれなく健康で「幸福勝利の青春万歳を!」と、妻と祈りゆく日日である。

本文中に明記した以外の主な参考文献=朴殷植著、姜徳相訳『朝鮮独立運動の血史 1・2』平凡社、早乙女勝元編『柳寛順の青い空 韓国で歴史をふりかえる』草の根出版会、柳大河著『柳寛順物語』新幹社、梁東準・太田哲二・全順子著『韓国偉人伝』明石書店、成律子著『朝鮮史の女たち』筑摩書房