投稿者:信濃町の人びと   投稿日:2015年 3月 4日(水)11時54分50秒     通報 編集済
前半は、先日の投稿と一部重なりますが。池田先生に学びましょう。長いですが。

青春対話 (64) 人間革命と広宣流布

日々をあくせくしているうちに

池田 もう一つの次元から言うと、人間の世界は、個性・癖・宿命・血縁等、いろいろなことが複雑にからみあっている。それらで、がんじがらめになって、なかなか抜け出せない。目先の小さな悩みにとらわれ、日々をあくせくしているうちに、人生は、あっという間に終わってしまう。
六道輪廻で生涯を終わるのが、ふつうなのです。
しかし、それを突き破って菩薩界・仏界に達する行動、つまり、慈悲の行動と振る舞いをしていこうというのが、行動革命であり、人間革命です。
みんなの身近なことでいえば、受験がある。もうそれだけで、世界はすべてという気になるかもしれない。その時、目の前に悩んでいる友達がいる。自分は受験だから、といって、無視すれば、それは「六道輪廻」。その時、ここで声をかけなければ一生後悔するかもしれないと、「一緒に頑張ろうよ」と励ましてあげれば菩薩界の生き方です。これが一家、一国、世界へと広がった時、偉大なる平和への無血革命となる。

―― 六道輪廻と言われましたが、たしかに、今の社会を見ていると、その通りだと思います。餓鬼界、畜生界のような社会です。人生の「いい生き方の見本」があまりにも少ない。ニュースも、政治家や財界人とか、いわゆる″偉い人″の悪事は数えきれません。
しかし、だからといって、制度だけをいじくっても、悪いやつは、もっと巧妙に悪事を働くと思うんです。根本から、人間から変えないとだめだと思います。

「人間革命」こそ21世紀のキーワード

池田 革命にも、いろいろある。政治革命、経済革命、産業革命、科学革命、芸術の革命、流通や通信の革命その他、さまざまです。それらはそれらなりに、意義があり、必要な場合もある。しかし、何を変えても、一切を動かしている「人間」そのものが無慈悲で、利己主義のままでは、世の中がよくなるわけがない。だから人間革命というのはいちばん、根本の革命であり、人類にとっていちばん、必要な革命なのです。
戦争直後、東大の総長(南原繁氏)が「人間革命しなければならない」と言ったことは有名です。ペッチェイ博士も、「人間変革・人間蘇生・人間復興」が必要と述べていた。世界の多くの知識人は、皆、ここにたどり着いている。

―― 先日、先生と対談されたアマゾンの詩人チアゴ・デ・メロさんも「『詩人としてもはや感動することはない』と思っていたのに、(池田先生の)『人間革命』という思想に触れた時は、何十年ぶりの感動でした」と語っておられました。(一九九七年四月)

池田 これからの世界のいちばんの焦点です。人生観・社会観・平和観等々、すべて新しい善の方向にもっていける精神そのものが人間革命なのです。「人間革命」は、二十一世紀のキーワードであると私は信じている。

―― ふつうに成長していくのと、人間革命とは、どう違うのでしょうか。

池田 「革命」は英語で「リボリューション」。「ひっくり返す」という意味です。急激な変化を意味している。
人間が少しずつ、年とともに成長するのは自然の流れです。それを一歩、越えて、急速に善の方向に変わっていくのが「人間革命」です。どんどん、よくなる。また一生涯、永遠に、成長していける。「ここまで」という行き詰まりがない。そのためのエンジンとなり、原動力となるのが信仰です。

「人間として」偉くなれ

―― たしかに、道徳の本とかを読んでも、それだけで人間革命できる人は、ほとんどいないと思います。

池田 道徳の本なら何千年も昔から無数にある。自己啓発の本などもあるが、言葉だけで人間革命でき、宿命を変えられるならば、苦労はない。
創価学会は抽象論ではなく、一貫して現実の人間革命を追求している。心を変革し、最高善の方向へもっていく。生きていく。行動していく。
その人間革命は、根本的には、仏の生命と一体の中で、できる。仏と境智冥合することによって、「自分を変える」力が、自分の中からわいてくるのです。

―― 自分の中にある「自分を変える力」――それが仏界ですね。
これは北陸の男子高等部長から聞いた、あるメンバーの体験です。
彼には三人の親友がいて、よく一緒に話したり、マンガを読んだり、という仲だったそうです。夏休みのある日、たまたま今の社会への不満や「運命とは」という話題になった。人生観についての話が何時間も尽きなかったそうです。その後、池田先生の著作を友人が「貸してくれ。うちで読むから」と持っていった。「青春対話」も読み合うようになった。学校の授業で、いちばんふざけていた四人は今、いちばん真剣に授業を聞くようになったというのです。
人間、だれでも、「成長したい」「変わりたい」と心の底では思っているのではないでしょうか。だから、ちょっとした、きっかけで変わることがあります。

池田 人間だけが「向上しよう」「成長しよう」と思うことができる。ただ流されて生きているだけではなく、もう一歩深い、人間としての方向転換をしようと思うことができる。
いわゆる「偉くなる」というのは、社会の機構上の話です。人間革命するとは、もっと深い、自分の内面のことです。永遠性のものです。社会的な偉さよりも、はるかに偉いことなのです。
人間は人間です。人間以上のものになれるわけではない。だから「人間として」の自分を変えていくことがいちばん、大事なのです。名声で自分を飾り、地位で自分を飾り、学歴で飾り、知識で飾り、お金で飾っても、本体の自分自身が貧しければ、貧しく、空虚な人生です。
すべてをはぎ取った、いわば「裸一貫」の自分自身がどうなのか。生命それ自体を変えていくのが人間革命です。釈尊も王子であったが、一切を捨てて、裸一貫の自分になって修行した。人間革命です。日蓮大聖人も、その当時、社会的には最低の存在とされた「旃陀羅が子」であると堂々と宣言されている。

―― たしかに、いわゆる″偉い人″が、名もない庶民よりも、人間としては、ずっと劣っていることは珍しくありません。
それどころか庶民は皆、平和を望み、幸福を願っているのに、社会の指導者が人間革命していないために、皆を戦争に引っ張っていったり、不幸の方向へ導いていくということがあります。

池田 二十世紀は二回も世界大戦を起こしてしまった。何億という人たちが地獄の苦しみを味わった。その原因は何なのか――それを考えた結論が、「人間自身が慈悲の存在に変わらなければいけない」ということなのです。

―― 小説『人間革命』の冒頭が「戦争ほど、残酷なものはない。戦争ほど、悲惨なものはない」となっているのは、深い意味があるのですね。
そして、『新・人間革命』の冒頭は「平和ほど、尊きものはない。平和ほど、幸福なものはない」でした。

8.15の思い出

池田 八月になると、思い出すことがある。昭和二十年(一九四五年)八月十五日――終戦の日のことです。
その日、東京は晴天だった。私は西馬込の親戚の家に疎開していた。正午から大事な放送があるということは聞いていた。いよいよアメリカに総攻撃をしかけるという大本営発表かと思っていた。そういう社会の雰囲気であり、そういう教育だった。正午前に、近所(東馬込)のおばあちゃんの家に向かっていったが、町は静まり返っていた。
玉音放送(天皇の肉声を放送すること)を聞いたが、ザーザーいって、何を言っているのかわからない。勝ったのか、負けたのか、おばあちゃんもわからない。戻っていくと、弟が「負けた、負けた」と泣きながら駆けてきた。とうとう頭にきたかと思った。「負けるわけがない」とか、皆で言い合っていた。夕方近くになってから、日本が戦争に負けたのは本当だとわかってきた。
町中が虚脱状態のようだった。進駐軍が入ってくることも心配になってきた。夕食の時間まで、皆、放心状態だった。しかし、それと同時に、午前中まで聞こえていた空襲の飛行機の音が、午後にはパッタリと止まり、「こんなに静かなのか」という安堵感も広がっていた。夜には、自由に明かりをつけることができた。「こんなに明るいのか」と思った。平和はいいものだなと思った。皆、安堵感はあったが、「負けて良かった」とか「負けてほっとした」とは、だれも言えなかった。
戦争で、多くの若い優秀な青年が命を落とした。我が家は戦争に兄四人をとられました。

愚かな指導者が悲劇を招いた

―― 「愚かな指導者たちに、ひきいられた国民もまた、まことにあわれである」(『人間革命』第一巻「黎明」の章)という人間革命の一節を思い出します。

池田 私の長兄はビルマ(ミャンマー)で戦死です。立派な人格の兄だった。
戦死の知らせを受けた時、まったく信じられなかった。それから三年ぐらいたってから、兄の戦友が訪ねてきて、戦死の状況を話してくれた。それによると、インパール作戦中のビルマで、機銃掃射によって撃たれ、川の中に落ちたらしい。
私は、その状況があまりよく想像できないでいた。しかし、かつてテレビでインパール作戦の細かい検証をやっているのを見た。それを見て、やっと納得できたのです。と同時に、いかに無謀で悲惨なことであったのかを、改めて知ることができた。日本軍が通ったあとは死屍累々となり、「白骨街道」と言われた。
指導者が状況判断を誤り、自分の手柄のことだけに目がくらみ、自分の指示で動いている多くの人を見失った悲劇だ。

―― こんな馬鹿げたことを二度と繰り返してはならないと思います。

池田 今、再び国家主義、権力主義が強まっていると多くの人が警告している。半世紀前の大悲劇を皆が忘れかけている。だから平和を叫びきっている創価学会が大事なのです。
私が入信したのも、戸田先生が戦争中、二年間も牢に入り、軍国主義と戦い抜いた、「それなら、この人は信じられる」と思ったからです。仏法の内容なんか、わからなかった。戸田先生という「人間」を信じたのです。そして戸田先生との「師弟不二の道」こそが、私の「人間革命の道」だったのです。

―― それが「広宣流布の道」そのものでもあったわけですね。

池田 「広宣流布していこう!」という心が、人間革命していく心になる。
人間革命が「自転」ならば、広宣流布は「公転」にあたる。自転と公転があって、宇宙の運動は成り立つ。公転がなければ宇宙の法則に反する。

広宣流布は「流れ」、全人類への永遠の流れ

―― 広宣流布というと、なかなかイメージがつかめないのですが、あるメンバーは「世界中の人が信心することが広宣流布なのでしょうか」と質問しています。

池田 妙法を持つ人が、一人から二人になるのも広宣流布です。一万人が五万人になるのも広宣流布です。
しかし、広宣流布とは数ではなく、「流れ」です。永遠に流れていくものです。ある時がきて、「これで、広宣流布が終わった」というものではない。それでは魂が消え、人間革命ができなくなってしまう。
どこまでいっても広宣流布がある。「いつ、こうなったから広宣流布」というのは、例えでは言えるものだが、きまった形のことではない。

―― そうすると「自転」のほう――自分の人間革命も「流れ」なのでしょうか。

池田 そうです。病気の人が健康になるのは、すごい人間革命です。意地の悪い人が、人に親切にするのも人間革命。親不孝の人が、親孝行になるのも人間革命です。
人間革命は「こうだ」という、きまった姿ではなく、よりよくなっていく行動です。広宣流布と一緒で、流れのようなものです。自分がどんどん、よくなっていく軌道に乗っているかどうかです。