投稿者:信濃町の人びと  投稿日:2015年 2月11日(水)18時02分50秒    通報
背景
第二次宗門事件により御本尊流布や正本堂への参拝ができなくなった時期のご指導です。
日寛本尊の授与はこの年の9月からです。
そうした時代背景の中で、本尊の意義を明確に示された内容です。
【池田SGI会長の指針】
◎「4・2」記念各部代表懇談会でのスピーチから   (1993年4月3日、東京)

どんな宗教も「本尊」がいちばん大切である。それでは、日蓮大聖人の仏法における「本尊」の本義はどこにあるのか。大聖人御自身が、こう仰せである。

「此の御本尊全く余所《よそ》に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持《たも》ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり」(御書1244㌻)

──この御本尊は、まったく、よそに求めてはならない。ただ、われわれ衆生が、法華経を持《たも》って南無妙法蓮華経と唱える胸中の肉団にいらっしやるのである──。

この御文を拝して、戸田先生は、このように講義された。(昭和31年3月6日、「日女御前御返事」講義。『戸田城聖全集』第6巻)

「大御本尊様は向こうにあると思って拝んでおりますが、じつはあの三大秘法の御本尊様を、即南無妙法蓮華経と唱え、信じたてまつるところのわれらの命のなかにお住みになっていらっしやるのです。これはありがたい仰せです。
この信心をしない者は、仏性がかすかにあるようにみえてひとつも働かない、理即の凡夫です。われわれは御本尊を拝んだのですから、名字即の位です。名字即の位になりますと、もうこのなかに赫々として御本尊様が光っているのです。
ただし光り方は信心の厚薄による。電球と同じです。大きい電球は光るし、小さい電球はうすい。さらにこの電球の例でいえば、信心しない者は電球が線につながっていないようなもので、われわれは信心したから大御本尊という電灯がついている。ですから、われわれの命はこうこうと輝いている」

信心が強いかどうかである。信心が強ければ、自分自身が功徳聚(功徳の集まり)となっていく。大聖人は御本尊のことを「功徳聚」と仰せである。そして「此の御本尊も只信心の二字にをさまれり」(御書1244㌻)

──この御本尊も、ただ信心の二字に収まっているのである──と。

ゆえに信心強き人は、絶対に行きづまらない。何が起ころうと、すべてを功徳に変えていける。幸福に変えていける。
もちろん長い人生には、さまざまなことがある。悩み、苦しみがある。しかし、それらを全部、自分自身の境涯を開く糧とできる。その意味で、信仰者にとって、根底は、一切が功徳であり、幸福なのである。信心強き人に、「不幸」の二字はない。

日寛上人(1665年―1726年)は「観心本尊抄文段」の末尾に、こう述べられている。
「我等この本尊を信受し、南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我が身即ち一念三千の本尊、蓮祖聖人なり。『幼稚の頸に懸けさしめ』の意、正しく此に在り。故に唯《ただ》仏力・法力を仰ぎ、応《まさ》に信力・行力を励むべし。一生空しく過して万劫悔ゆることなかれ」(文段集548㌻)

──われらがこの本尊を信受して、南無妙法蓮華経と唱えていくならば、わが身が、そのまま一念三千の本尊であり、蓮祖聖人(日蓮大聖人)なのである。「(仏法に無知な末法の)幼稚の頸に懸けさしめ」との(観心本尊抄の)御文の元意は、まさにここにある。ゆえに、ただ仏力・法力を仰いで、信力・行力を励むべきである。一生を空しく過ごして、永遠の悔いを残してはならない──。

御本尊への「信心」によって、わが身が即「本尊」と顕れ、「蓮祖聖人」と顕れると明言しておられる。そうなれるために、大聖人は御本尊を顕してくださったのである。ここに、大聖人の仏法の極理がある。

信心によって、わが胸中の御本尊を開くのである。ダイヤモンドのごとき仏の生命を開き、輝かせるのである。
本来、無量の生命力は、自身の内部にある。無限の知恵の泉は、わが胸中にある。それを、自在に涌現できるのが「信心」である。
戸田先生は、よく言われていた。「自分の中にあるものが出てくるのだよ。無いものは出てこないぞ」と。
強く清浄な仏の境界も、弱く醜い地獄・餓鬼・畜生等の生命も、全部、わが生命にある。縁に触れて現れてくる。また、生命は三世にわたるゆえに、過去の宿業が、大きな悩みとして現れ出てくる場合もある。しかし、「苦悩」の因が「自分の中に」あるのと同じく、それをそのまま「幸福」へと転換しゆく力も「自分の中に」ある。これが仏界の力である。
結局、人間とは、どこまでいっても、戸田先生が言われたように、「自分の中にあるものが出てきた」ものである。それ以上でも、以下でもない。
だからこそ、わが生命の大地を耕し、深く豊かに幸福の根を張らねばならない。「胸中の御本尊」を開き、何ものにも揺るがぬ大樹の自分をつくらねばならない。
それが、境涯のうえでは優れた人間性や立派な振る舞いとなって表れ、生活のうえでは功徳・福運となって現れるのである。
ゆえに大切なことは、「信心」があるか、ないかである。大聖人の「ただ心こそ大切なれ」(御書1192㌻)との仰せを、絶対におろそかにしてはならない。
形式ではない。地位でも財産でもない。「信心」ある人こそが、真の「幸福」の人である。