真実  投稿日:2015年 1月 9日(金)22時33分4秒    通報 編集済
「創価学会との攻防」と題した章

創価学会が後藤氏の力を必要としたのは、’69~’70年頃から大石寺周辺の土地を買い占め、大本堂建立や「創価学会富士桜自然墓地公園」造成といった大規模事業を進めていたため。

巨大利権にまつわるトラブル処理のため、後藤組を用心棒として使ったうえ、ダーティーワークも任せていた。

当時の創価学会顧問弁護士で、学会と後藤氏を繋ぐパイプ役でもあった山崎正友が、後年に創価学会を追放されてから著した『懺悔の告発』によれば、最後まで学会に抵抗した人物に対して、後藤組組員はその自宅にブルドーザーで突っ込み、日本刀で片腕を切り落としたとある。

<学会は、大本堂を造る時からデタラメなことをしていたんだ。大本堂を造る際に、市道を勝手に(市の許可なく)潰したり、農地を不正に取得したりしてな>といったもの。こうした行状から創価学会に対する反対運動が起き、後藤氏は前述の山崎氏からこう持ちかけられたという。

<山崎から「何とかならんか」という相談があった。そういう裏の話は当時、あの男(山崎)がすべて仕切っていて、池田ともサシで話し合えるぐらいの実力は持ってたんだ。実際、俺にも「親分のことは池田会長に伝えてあります。池田会長も『くれぐれもよろしく』と言ってました」と言ってたんだから>

しかし、後藤組の介入後も反対運動は鎮静化せず、富士宮市議会では’80年末から、関係者の証人喚問、強制調査、さらには証言拒否や偽証には禁錮や罰金刑を科せる「百条委員会」の設置に向けた動きが始まった。
議会には山崎氏の証人喚問、池田氏に与えていた名誉市民称号の取り消しを求める声も噴出。
窮地に陥った学会は、再び後藤組を頼った。

<この間(’80年)、山崎は学会を破門(除名)になって失脚するんだけど、山崎が作った俺とのパイプは生きていて、今度は地元の公明党の連中を通じて(百条委員会を)「何とかして欲しい」という相談があったんだ。それで(百条委員会設置)賛成派の連中に〝話〟をしたわけだ>
結果は創価学会の思惑通りに。
百条委員会は81年春に設置されたものの、公明党などの猛烈な切り崩しにより、何ら機能しないまま同年末に解体されたのだ。

だが、その直後、創価学会と後藤氏の縁はいったん切れる。後藤氏によれば、学会が後藤組を切り捨てようとしたためで、憤激した後藤氏は竹入義勝.公明党委員長、矢野絢也・公明党書記長(肩書はいずれも当時)に、二度にわたって内容証明を送付した。

しかし、学会が黙殺したうえ、’83年6月に突然、富士宮署に「後藤組潰滅対策本部」が設置された『とから、後藤氏はこれを学会の差し金~見て激怒。
’85年11月には後藤組系幹部らが創価学会文化会館(東京・信濃町)に発砲し、逮捕される事件が発生する。この件について、後藤氏は、
<これには池田もビビッただろうな。そりゃそうだわ、行く先々で〝パン〟って音がするんだから(笑)。それで慌てて、俺んところに池田の使いが飛んできて、詫びを入れてきたんだ>
という。
これがキッカケで、創価学会と後藤氏は再び協力関係に。
新たな窓口は、後藤氏のもとへ謝罪に訪れた前述の〝池田の使い〟で、後藤氏はこの人物葬「X」と呼称し、前述の山崎氏が学会から追放された後は<このXが〝裏〟の仕事を担当していたんだ>と述べている。

同書は注釈として、後藤氏が「X」の正体を一切語ろうとしないとしたうえで、これまでの報道などから、この人物が藤井富雄・元公明党東京都議会議員であることは、もはや疑いようのない事実だ>と付記している。