投稿者:ジョーカー   投稿日:2015年 4月10日(金)23時15分36秒     通報

・虹と創価家族様
私は創価の師弟の中に、人間としての真髄があると思っています。牧口先生と戸田先生が投獄された時に、戸田先生が祈っていたことは、「すべての難が自分に集まり、一日も早く牧口先生が牢獄からでられるように」と。これが創価の師弟であり、人の振る舞いの最高峰ではないかと思うのです。生命尊厳が仏法であり、それは現実の振る舞いとしてあらわれてこそ意味がある。人を大事にし、敬うことができないのであれば、それは絵に描いた餅であり、いかに法が優れていようと無意味でありましょう。
そして創価の師弟の師は、「三類の強敵と戦っている人」こそがふさわしく、日興上人が「下劣な者為りと雖も我より智勝れたる者をば仰いで師匠とす可き事」と言われているように、三代会長が最も優れている人からこそ、創価学会は公式に、永遠の指導者として定めたのではないでしょうか。初代、二代、三代も三類の強敵との壮絶な戦いをされた大指導者であり、その人を師と仰ぎ、教えを請うことが、日蓮大聖人の精神にも適っていることであり、広宣流布を正しく推進するために不可欠な要素であると思うのです。
実際自分がどれほど三類の強敵と戦ったというのか。三代会長以上に戦っているといえるのか。言えないのであれば仰いで師とするのが、日興上人の精神にも合致するのではないか。そして、創価三代の崇高な精神以上のものが一体どこにあるのか。これ、最高峰ではないか。
大事なのは今であり、その今という時に三類の強敵と戦い、広宣流布を推進している人がいるのに、その人を師としないで一体誰を師とするのか。仏法は観念論ではなく、現実の人であり、今なのです。もちろん日蓮大聖人は根源の師であり、万人の師であることは言うまでもありませんが、根源の師と創価の師を混同しているひとはほとんどいないとは思いますが、一応確認の意味で、言っておきます。日蓮大聖人は根源の師、三代会長は広宣流布を推進する上においての師。この違いがあり、ごちゃまぜにすると狂いが生じます。

・同志の歌様
信心とはどこまでいっても己心の魔との闘争ですね。魔を見破ることは困難であり、打ち破ることはさらに難しい。また、自身が増上慢になってしまっていても、自分で気づくことはほとんど不可能であると感じます。だからこそ、人の話を聴く姿勢が大事になると思うのです。魔に気づかせてくれる人が善知識であり、諸天善神であります。広宣流布を推進すればするほど、魔も競い起こるのが仏法であり、避けることはできない。魔との闘争においては、日頃の信心が大事であり、題目を怠っているようでは戦いにならない。故に基本が大事になりますね。
自分の過ちを認めることは勇気のいることです。同志の歌様は勇気があったからこそ、魔を見破ることができたのだと思います。その過程は壮絶だったことでしょう。人に歴史ありであり、信心を極めようとすると、必ず壁にぶつかります。簡単に突破できるような壁ではなく、何が正しくて何が間違っているかもわからないカオスの中を何年にも渡りさまようこともあるでしょう。決して順風満帆にはいかないのが真実であり、カオスの先にしか栄光はない。最後に勝つことが大事なのはそういうことであり、途中のカオスは避けることは出来ません。後悔することも、翻弄されることもあります。それでも、最後の勝利を信じて、題目をあげることこそが真の信心であり、勝負なのだと思います。
カオスを超えて、現在、天魔を打ち破る祈りをされている同志の歌様は、立派であり、模範とすべき信心であると感じます。ピンチがなければチャンスもない。追い込まれなければ信心はわからない。苦悩と歓喜は紙一重ですね。