投稿者:信濃町の人びと 投稿日:2015年 3月 1日(日)13時35分4秒  

さて、読まれてどのように感じましたか?
ある方がうまくまとめていたので、それを参考までに後ろにそのまま掲載させていただきます。

私はこの迫害と人生を読むと涙してしまうのです。
歴史における迫害の構図、それは池田先生を追い落とした
54年問題そのものです。

今も同じです。ずっと54年問題をひきづっできたのです。
54年問題はいまだに断片的にしか明らかにされていない。

名前を明かします。かつて先生はそのように語られまさした。
師匠の正義は誰が証明するのですか?
先生が真相を明らかにするのを待つのが弟子の生き方ではない。それは池田先生の指導から明らかなこと。

師匠の正義は師匠を正しいと思う弟子が証明する以外にない。
しかし、今の最高幹部は54年問題を正して歴史を明らかにし、
師匠の正義を証明したのでしょうか。

ここに問題の核心があります。彼らは、池田先生を迫害した側にいた。それに追随し迎合している。
だから、真実を明らかにすることができないのです。
本物ではない証明です。本部にいて、先生の側にいながら何をやっているのか?
会員を弾圧しているならば、さらに酷い話です。

かえって師匠はあまりにも強し。
だから、私たち師匠を教訓し、柔らかに弘めていこう。
党を勝たせるためには妥協はしょうがないではないか。
宗門を恐れて時流ならば止むなしと言い放つ。
それは、牧口先生、戸田先生にも反する師匠への敵対です。

佐渡御書に書いてある通りですね。
そうして、師匠である池田先生を貶め、売り飛ばし、
杖で打ってきたのではないか。

いま、原田会長をはじめとした悪の4人組みが、また、先生を利用している。組織を維持するために、金儲けのために
それが会則変更、SGI会憲に他ならないのです。

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歴史と人物を考察 ―迫害と人生―

創価大学第11回創大祭 記念講演
時期:昭和56年10月31日
■苦難を乗り越え真の偉業

“長い人生行路にあって、偉大なる作業をしていくためには、それなりの限界や絶望の時もあるかもしれないし、巨大なる幾多の障害もあるに違いない。その時こそ、いやまして、自ら逞しく光鍛えられていくことを、忘れてはならないと思います。”
「つきはなされてみて初めて、人はその全突進力が与えられるのだ」(『ジョゼフ・フーシェ』)というツヴァイクの言葉を紹介し、古今の人物を通して苦難が人生を鍛える回転軸であtることを説明していく。

■古今の史実が示す“迫害の構図”

(1)菅原道真

道真は父祖三代の学者の家に生まれ、才能にあふれ、右大臣にまでなった。
左大臣兼左大将の藤原時平とともに右大臣兼右大将となり、まさに位人臣を極めようとしたとき、大宰府に左遷された。
これは時平の讒言によるものであった。
筑紫(九州)への下向にあたり自宅の梅に
 「東風吹かば 思いおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ」
 と歌ったことは有名。
道真は配流の地で客死。
彼の晩年の悲劇とは逆に、彼の学識と文才は人々の尊敬を受けた。

(2)柿本人麻呂

万葉集最大の歌人である人麻呂も晩年には現在の島根県に流罪にあって刑死したという説がある。

(3)頼山陽

頼山陽は明治維新に歴史観という点から影響を与えた『日本外史』を執筆した。
『日本外史』の大部分は脱藩のために牢獄に閉じ込められていた時期に作成されたものである。

(4)吉田松陰

野山獄に拘束されていたときにも読書と思索を止めなかった。
松陰の人格に自然と周囲の囚人も感化され、獄中で論語等の講義などが行われた。
安政の大獄で刑死。

■障害に鍛え信念の道進む

(5)屈原

中国の戦国時代(二千数百年前)、楚の国にいた詩人。大変に有能な人で、司馬遷の『史記』にもその博覧強記ぶりが記述されている。
当時、勃興してきた大国・秦に対抗するために斎と同盟することを国王に進言したが聞き入れられないどころか、逆に秦と親交を結び、屈原を追放した。
君主と国を憂う、『離騒』という詩を作るが、容れられず、最終的には楚は秦に滅ぼされる。
「余が心の善しとする所 九たび死すといえども 猶未だ悔いず」

(6)司馬遷

漢の武帝の時代、匈奴と戦って敗北した李陵二巻する記述をめぐって王と衝突、宮刑にあう。
しかし『史記』完成という志完遂のために生きつづける。

■「喜びは、苦悩の大木にみのる果実である」

(7)ガンジー

彼の人生は逮捕と投獄・断食による抵抗の人生であった。
イギリス植民地政府の弾圧を覚悟の上で運動に身を投じていった。
「善いことというものはカタツムリの速度で動く」という言葉どおり、粘り強く民衆に語りかけていった。

(8)ユゴー

1848年の2月革命の時に政治の世界に身を投じ、民衆擁護のために戦ったが議会のなかで次第に孤立していった。
1851年のナポレオン3世への弾劾演説を最後に亡命を余儀なくされた。この際、「喜びは、苦悩の大木にみのる果実である」とうたった。
しかしその亡命先で執筆を再開し、『懲罰詩集』『レ・ミゼラブル』『93年』などの作品を完成させた。

■先駆者の栄光と嵐の道程

(9)ルソー

徹底した自然や人間性への深き洞察のゆえに、当時の独断的なキリスト教哲学を激しく批判し、そのために逮捕状が出され、亡命を余儀なくされた。

(10)セザンヌ

後の印象派の先陣を切ることになるが、発表当時は酷評をうけた。
それでも自分のスタイルを変えず描きつづけた。

(11)レーニン

レーニンの兄は皇帝暗殺未遂者として死刑となり、そのために入学したばかりのカザン大学を放校処分となった。
自らも革命運動に身を当時、シベリアに流刑されるが、その間にロシア経済の分析を進め、革命の準備を進めていた。

■無名の民衆に包まれた生涯

こうしてみてくると、歴史的偉業は平坦な道のりの上にできあがったものではないということがわかる。
むしろ迫害や苦難が半ば宿命づけられているといってよい。
“歴史的偉業というものは、どんなに偉大な個人の名が冠せられていようとも、民衆という大地に、しかと根を張っているものなのであります。だからこそ民衆の犠牲の上に君臨しゆく権力者やエリートは、野望と保身から発する、ドス黒いねたみと羨望の炎(ほむら)に焼かれるのであります。”
“そこから民衆のリーダーに対して迫害の嵐が起こるのは必然の理なのであります。”

“私も一仏法者として一庶民として、全くいわれなき中傷と迫害の連続でありました。しかし、僭越ながらこの‘迫害の構図’に照らしてみれば、迫害こそ仏法者の誉れであります。人生最高の錦であると思っております。後世の歴史は、必ずや事の真実を厳しく審判していくであろうことを、この場をお借りて断言しておきます。”

[勝手に解説]

 冒頭のツヴァイクの言葉は佐渡御書の「強敵を伏して始めて力士を知る」「鉄は炎打てば剣となる賢聖は罵詈して試みるなるべし」を彷彿させます。

 さて、引用された11人の巨人については、どの一人をとっても注釈をつけるだけでかなりの分量になってしまいますね。

 菅原道真は左遷・客死した後、都に雷が続き、「これは道真のたたりに違いない」と思った都人が祭ったのが北野天満宮(いわゆる「天神さん」)です。ここでは要約にいれませんでしたが、本文に「とうりゃんせにも歌われている」とあるのはこのことを指します。あと、「東風吹かば…」と歌われた梅は主を慕って太宰府まで飛んでいったという伝説(いわゆる「飛梅」)も残っています。

 …といった具合に11名続けることになると、読むほうも大変でしょうし、ここで登場した人物は他のスピーチや独立した書籍で扱われることが多いので、その時に触れることにしたいと思います。

 この講演で最も重要な部分は当然ながら史実の紹介ではなくて、最後の部分の「迫害の構図」

-民衆を犠牲にする「指導者」が、真に民衆に支持されるリーダーの存在をねたみ抹殺しようとするという構図-

であり、それに屈しないで戦いつづけることで、最終的に勝利をおさめるということです。

先生は「後世の歴史は、必ずや事の真実を厳しく審判していくであろう」とおっしゃっていますが、

これは「時間が経てばいずれわかる」のではなく、

「師匠が正しいのだ」と叫ぶ弟子の存在によってのみ立証されるのですから、決意を新たにして読むべき箇所といえます。