池田先生に学ぶ(歴史と人物を考察ー迫害と人生①
投稿者:信濃町の人びと 投稿日:2015年 2月28日(土)19時32分31秒  

みなさま。今晩は。
さて、先生のスピーチを学ぶ中でこれは絶対に学んで欲しいものがあります。
ご存知の方も多いとはおもいますが昭和56年の創価大学でのスピーチで、歴史と人物を考察ー迫害と人生です。
会長辞任後の公式の場での大事なスピーチです。
全部で5回に分けて掲載します。よろしくお願い致します。

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歴史と人物を考察ー迫害と人生①
第11回創大祭記念講演 (1981.10.31)
苦難乗り越え真の偉業

本日は、伝統の創大祭の意義を含めて、最近、常々私が考えている、歴史上、迫害に遭った人々がいかなる背景から迫害を受け、また、それをいかに勇敢に乗り越えていったかということを考えてみたいと思います。言うなれば「迫害と人生」とでも言えるでしょうか。芝生の上で秋の日射しをうけながら、五、六人の学生と語り合うような気持ちで思い付くままに語らせていただきます。
私は、十代の時に読んだある西洋の哲学者の「波浪は障害にあうごとに、その堅固の度を増す」との格言が胸に迫り、大好きでありました。言うなれば、この格言を土台として、人生を歩んできたとも言えるかもしれません。

長い人生行路にあって、偉大なる作業をしていくためには、それなりの限界や絶望の時もあるかもしれないし、巨大なる幾多の障害もあるに違いない。その時こそ、いやまして、自らが遅しく光り鍛えられていくことを、忘れてはならないと思います。

多くの優れた伝記を残した、今世紀のオーストリアの有名な作家ツヴアイクは、次のように訴えております。
「だれか、かつて流罪をたたえる歌をうたったものがいるだろうか? 嵐のなかで人間を高め、きびしく強制された孤独のうちにあって、疲れた魂の力をさらに新たな秩序のなかで集中させる、すなわち運命を創りだす力であるこの流罪を、うたったものがいるだろうか? ――自然のリズムは、こういう強制的な切れ目を欲する。それというのも、奈落の底を知るものだけが生のすべてを認識するのであるから。つきはなされてみて初めて、人はその全突進力があたえられるのだ」(『ジョゼフ。フーシェ』山下肇訳)と。

ツヴァイクはここで、釈尊、モーゼ、キリスト、マホメット、ルター等の宗教者、またダンテ、ミルトン、ベートーベン、セルバンテス(スペインの作家で『ドン・キホーテ』の著者)等の芸術家の例をとり、流罪や迫害が、いかに彼らの「創造的天才」を育てる沃土となっていったかを述べております。誠に苦難こそ、人間の人生や運命を、闇から暁へ、また混沌から秩序へ、破壊から建設へと飛躍させいく回転軸であったのであります。私はここで、自分なりの立場から古今東西の歴史を俯瞰しながら何人かの人物にスポットを当て、人生における迫害や流罪の持つ意義を、時間の都合上、簡潔に探ってみたいと思うのであります。

古今の史実が示す″迫害の構図″

まず初めに、我が国の歴史に目を向けてみたい。それは学問深く文雅の才に富んだ菅原道真であります。彼は右大臣にまでなった特筆すべき学者であります。父祖三代の学者の家に生まれ、その天稟の才能は鋭く開花し、藤原氏盛期の平安期に群臣の上首に並ぶことは、異例の栄進でありました。
左大臣兼左大将の藤原時平とともに、道真は右大臣兼右大将となり、更にその当時の最高の位であった従二位に進み、まさに位人臣を極めようとした時、突如、急転直下、九州の大宰府へ左遷されたことは有名な史実であります。
これは明らかに藤原時平らの讒言によってこうむった冤罪でありました。道真は、当時の最大の権力者であった藤原氏の常套手段であるライバル排斥の一つの犠牲者になったわけであります。時に道真五十七歳。その冬、道中の国々から食料も馬も給与することを禁じられた長途の旅は、さぞかしつらかつたに違いないと思われます。

現在の九州・福岡県、すなわち当時の筑紫への下向にあたり、道真が我が家の梅の樹に向かって「東風吹かば匂おこせよ梅の花 あるじなしとて春を忘るな」と詠んだ和歌はあまりにも有名である。彼は無実の罪を晴らすこともできないままに、筑紫の配流の地で五十九歳の生涯を閉じた。しかしこの讒言による冤罪によって、菅原道真の名は、後世に不滅の光を放って残されていることは、皆さまご存じのとおりであります。
彼の、晩年の悲劇の模様とは逆に、彼の学識と文才に多くの人々がいよいよ敬慕の念を深めていったことは事実であります。彼の学問、彼の詩文、彼の書、彼は最大の歴史家と謳われ、また歌人と謳われ、江戸時代の寺子屋教室においては、津々浦々に彼の名声が語り継がれていったのであります。「通りゃんせ、通りゃんせ、ここはどこの細道じゃ」とのわらべ唄にまで歌われてきたとおり、その名はとどろきわたり残されていったのであります。

つづく