投稿者:河内平野  投稿日:2014年11月14日(金)09時03分24秒    通報
彼は以前から主人に忠告していた。
《えせ信心と信仰を区別しなさい。贋金を本物あつかいしてはいけません!》

「(彼らは)利欲に目がくらんだ心から、信仰を商売と思い、売物と考え」
「人間の持っているなによりも神聖なものを悪用して罰を受けず、好き勝手にもてあそんでいる」
「天国への道を利用して、産(財産)を成しているじゃありませんか」

彼によると、立派な信者ほど尊敬すべきものはなく、真の信仰から発する熱情ほど、気高く美しいものはない。

《それだけに、信仰を売りものにする、もったいぶった威厳や見せかけ、いかさま師そのものの奴らほど不快なものはない》

もちろん、これはキリスト教における信仰論である。
ただ、宗教そのものに正邪、高低浅深があることは当然として、正しい宗教であっても、狂信ということもありうる。

また、人々の信仰心を利用する「ぺてん師」が現れる可能性はつねにある。
見抜かねばならない。
だまされてはならない。

また「偽物」への不信感に心を奪われるあまり、
「本物」の正しい信仰まで捨て去ってしまうようでは、あまりにも愚かである。

それでは、せっかくの幸福への軌道を自分で壊してしまうことになる。
結果として、「偽物」にたぶらかされ、屈服したのと同じことになってしまう。

牧口先生は「贋札は本物に似ているほど罪が大きい」と言われたが、
贋札が出たからといって、「本物」まで捨てる人はいない。

むしろ「偽物」の正体を見破り、打ち破りながら、いやまして「正しき信仰」に生ききっていくことである。

【海外派遣メンバー、各部代表者協議会 平成三年四月十二日(全集七十六巻)】