投稿者:河内平野  投稿日:2014年10月11日(土)10時03分37秒    通報
敦煌の名が歴史に登場するのは紀元前一一一年――約二千百年前、中国の前漢時代にさかのぼる。
当初、敦煌は、漢による《西域経営》の軍事基地として開かれた。
そして、中央アジアの安定とともに、東西の文化がシルクロードを通ってにぎやかに交流し、仏教東漸の揺籃の地として、大いに繁栄した。
四世紀末までには、シルクロードの住民の八〇パーセントが、大乗仏教を信仰していたといわれ、なかでも法華経を重視していた形跡がうかがえる。

釈尊の法華経の、一次元における「広宣流布」の姿といってよいかもしれない。
そうしたなか、敦煌は、数多くの民族が入りまじり、活気あふれる《自由と平和の天地》であった。
仏教文化、庶民文化の華も咲き誇った。大きく、また絢爛と――。

私どもSGIの運動も、この地球上に、美しき《人間讃歌の文化》《民衆凱歌の社会》の花園を広げゆく運動である。

あの有名な莫高窟、千仏洞が造営されたのも、この時代であった。
その名のごとく、輝くばかりに栄えた敦煌の様子は、当時の歴史書の各所に記述されている。

しかし、繁栄は永遠に続くことはなかった。
人々は万代の繁栄を願い、望んだであろう。
だが、歴史の審判は厳しかった。

敦煌に花開いた仏教も、八世紀ごろ(唐の時代)、滅亡の兆しが始まる。
もちろん、そこには、さまざまな要因が重なっていることも事実である。

たとえば、
①航海技術の発達により、交易ルートとして、南海路(海のシルクロード)の重要性が高まり、相対的に陸路(オアシス・ロード)の必要性が低下した(経済的繁栄のかげり)、
②民族意識の高まりにより、諸民族融合の象徴であったシルクロードが分断された(社会の変化)、
③イスラム教徒の侵入があった(外敵の侵略)などが考えられる。

【第十四回SGI総会、第七回中部総会、第四十七回本部幹部会 平成三年十月二十一日(全集七十九巻)】