投稿者:河内平野  投稿日:2014年10月 9日(木)14時24分46秒    通報
弘安二年九月二十一日、農民信徒二十人を、暴行のかぎりを尽くし、不当に逮捕するという暴挙に出たのである。
その日、下野房日秀の自作の持ち田で、稲刈りが行われていた。
下野房によって折伏され、指導を受けている感謝の気持ちもあって、神四郎はもとより多数の農民信徒が喜々として手伝っていた。

行智らは、絶好の機会とばかりに、政所の役人、行智一派の武士たち、滝泉寺内や弥藤次一味の農民などをかたらい、大挙して弓矢や刀で武装し、稲刈りの場を襲った。

いつもならば反抗せずに逃げるところを、再三にわたる不当な仕打ちに、もはや神四郎たちも我慢の限界を超えた。
なんとか止めようとする下野房を逃がし、ついに彼らも応戦した。

その時のありさまについて、日亨上人は、次のように描かれている。
「信徒側では此迄は興師(日興上人)の訓戒と秀弁両師(日秀・日弁の二師)の懇諭を堅く守って、
擲られ放題切られ放題大概は逃ぐるが定手(いつもの手)になって居たが、
再三の乱暴に堪忍袋の緒が切れて一人として逃ぐればこそ聞かばこそ秀師等が
何と止めても却って秀師を退散せしめて神四郎が指揮をして待ち合せの棒や鎌で応戦をした、
何れ殺伐時代の百姓であれば腕力もあれば武伎も出来る、
況んや神四郎は身は農夫であれど武道の心得疎からぬ者なれば、少勢の駈引自由である、
中には暴徒の武器を奪ひ取って命限りに師子奮迅の勇を振るうた、
何日もの弁論の折伏を今日こそは武力に替えて働いた、
己れ憎くき行智奴弥藤次の死に損ひ、年頃の無念を晴すは今日である、
四郎の敵き弥四郎の怨敵覚悟せよ、法華折伏の利剣の味を受けて見よと、
何れも劣らず奮闘して思ふまゝに多勢の悪徒を悩ましたが、残念ながら多勢に無勢遂に二十人の信徒は力尽きて残らず政所へ縛られた」(熱原法難史)

その場におられたような、生き生きとした情景描写である。

【関西最高協議会 平成三年十月十七日(全集七十九巻)】