創価の師弟③

投稿者:河内平野  投稿日:2014年10月 6日(月)09時17分9秒    通報
御書に「愚人にほめられたるは第一のはぢなり」(御書二三七頁)と。
また戸田先生も、この御聖訓を拝して、「大聖にほめらるるは一生の名誉なり」と言われていた。
そう肚を決めれば、何ものも恐れることはない。

戸田先生の「真実」とは何か。
結論していえば、「広宣流布あるのみ」――ただそれしかなかった。
そして、「広宣流布」を進めゆくための「創価学会」を築き、守りぬいていく以外にない――ここにこそ、先生の「真実」があった。

そして「大切な仏子を、一人残らず幸福にさせたい」との一念――先生のお考え、行動の一切は、そこに発し、そこに尽きていた。

もとより、相手の地位や名声、財産など、まったく眼中になかった。
ある時は、阿修羅のごとく悪を砕き、ある時は、大海のごとき慈愛で同志をつつんでくださった
――まさに、天を支える巨人アトラス(ギリシャの伝説に登場する巨人)のように、ただ一人、広布の前進を担われた先生であられた。

私は、十九歳の夏、先生とお会いした。
一年数ヵ月後、二十一歳からは直接、先生のおそばで働いた。
三百六十五日、朝から夜中まで、懸命にお仕えした。
ある時など、朝の四時ごろ、急に呼ばれたことがある。
今と違って、車など簡単に見つからない。
それでも不思議とタクシーが見つかり、先生のもとに駆けつけた。
一事が万事で、毎日が、それは厳しい訓練の連続であった。

――「真実」を知るためには、多面的に「事実」を多く知ることも、その一つの前提となろう。
なかでも、その人物が、「最悪の事態のなかで、何をなしたか」を見極めることが肝要であろう。

「よからんは不思議わるからんは一定とをもへ」(御書一一九〇頁)
――よくなることは不思議であり、悪くなって当然であると思いなさい――と大聖人は仰せである。
人物の真価は窮地にあってこそ、明らかとなる。
その意味で私は、先生を、あらゆる面で、つぶさに見てきた。

先生の「真実」を、魂の奥底に刻んできた。
私は「先生の行くところ、どこまでも行く。
先生とともに生き、先生の目的のために死のう」と決めた。
弟子として先生の志を受け継ぎ、広宣流布の一切の責任を担いゆかんと決めた。
その時から、先生のお気持ち、お考えが、鮮明に心に映じはじめた。
師の真の偉大さ、すばらしさを、胸中深く焼きつけることができた。
また打つ手、打つ手が、師のリズムに合致しゆく自身を確信した。
私が言っていること、やっていることは、すべて先生の心を受けての言動のつもりである。
師弟の心は、どこまでも「不二」でなければ、仏法の生命はない。
師の教えを守ってこそ弟子である。「師弟」である。

【第十三回関西総会、第五回兵庫県総会、常勝の花満開総会、県・区代表幹部会 平成三年十月十六日(全集七十九巻)】