投稿者:京都乃鬼 投稿日:2019年 4月18日(木)05時20分29秒   通報
京都乃鬼新聞
2019-4-17

特別企画
=妙法の万葉を紡ぐ=

「妙法の万葉集」(友岡雅弥氏の証言編)

第15回(※印は弊社解説)

池田先生は、2000年以降、夏の軽井沢、冬の沖縄以外は地方指導に行かれなくなりましたね。

2007年、久しぶりに関西へ来られた。
その時一番私が驚いたのは、全てが会長決済、原田会長を通さないと先生に伝わらなかった事でした。

年に2回も3回も関西に来られていた時なんかは、関西は先生直結だったので、先生は皆の顔も覚えておられるし、特別な警備もなくノーチェックで部屋にも入れて、なんでも率直に池田先生に言えたんですよ。

先生の方から「おー、よく来たな!」とか言われてご挨拶ができた。

ところがこの2007年の時は、先生の周りの警備は関西の金城会や関西の日光警備ではなく、東京の長谷川さんの管轄だった長城会(創価大出身者のみによる警護係の立石氏、木村氏ら)が就いていたんです。

だから誰が先生を訪ねに行っても「接遇へ行ってください」と冷たく言われて接遇に回されたんです。

私はそれを見て「あー、全部信濃町本部(※執行部)のコントロール下に置かれてしまったな」と思いました。
7年間で全く変わってしまったとも思いました。

ちょうどその頃から、先生が衛星放送で、「歯が悪いから、しゃべりずらいんだよ」ということをおっしゃるようになりましたね。

皆も憶えていると思いますが、あれはそうではなくて、実は、本番当日に、原稿が先生に出されるようになったからなんです。

先生は本番その場で、初見でスピーチを読まなければならなくなったんです。

(※2003年5月、軽度の脳梗塞を発症され、後遺症として口の周りが動きずらくなったのも原因)

2000年までの地方指導の時では、マーク記者が必死で翌日の紙面の面建てを先生の所に持っていき、先生とともに打ち合わせをし、見出しや、フリガナや、写真の扱いまで先生から細かい指示が出されていました。

スピーチの原稿は、先生と何度もやり取りをして、なおかつ前日には、先生はスピーチの練習までされていたんです。

それがある時から、本番原稿をドンと机の上に置かれているだけです。

どこに力をいれて話すか、どこを省くか、全く先生にも判断ができない。酷いもんですよ。

だから、先生はアドリブを多く入れたんでしょうね。

ですが、その先生のアドリブは執行部に全部カットされちゃった。
執行部にとってよほど都合が悪かったのでしょうね。

つづく

提供は
敵からは恐れられる
味方からも怖れられる
京都乃鬼新聞社でした。

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おにゆり乃
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