投稿者:ジョーカー 投稿日:2018年11月 8日(木)22時16分58秒   通報
池田大作全集68巻 P59より

「指導した相手が納得しなかったり、また理を尽くして話をしていくのが面倒になると、『あなたは謗法である』といって、はねつける幹部がいたことを私も知っている。また、ご家庭にあっても、子供やご主人が勤行を欠かしたりすると、すぐに『謗法』にしてしまうご婦人方もおられるようである。(笑い)
しかし、それは論理の飛躍であるし、心から納得できるものではない。何かあると『謗法』の一言で、すべてを安易に切り捨てるようでは、狭小な生き方になりかねないだろう。」

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創価三代の指導に照らし、おかしいものをおかしいと主張する人を、「団結を乱す魔」「組織を批判する者」「仏敵」とするのは、論理の飛躍にも程がある。自分の意見や考えに理があると思うならば、どこまでいっても納得の対話を展開していくのが仏法の世界である。

組織の方針に無条件で従うことは楽であり、波風も立たない。しかし、納得できないことや、おかしいことに目をつぶり続けると、他の会員が苦しむことを容認することになる。その先にあるのは、人材の損失であり、広宣流布の後退である。

考えを持つ人、意見をする人を面倒がり、切り捨てる。こんな組織はすぐに官僚化し、多彩な人材はいなくなる。画一的な思想しか持てない会員しかいなくなってしまえば、第六天の魔王の思う壺となり、支配される。そして魔王は、論理を飛躍させ、善人を迫害する。

法華経の精神とは、調和であり、寛容である。バランスがとれていることが、宇宙のリズムとも云える。魔王はバランスを崩壊させ、混沌を巻き起こす。論理の飛躍は争いを生み、人間主義を破壊する。そういったものと戦い続ける一念そのものが仏であり、創価学会員のあるべき姿といえよう。