投稿者:ジョーカー 投稿日:2018年10月10日(水)00時58分19秒   通報
子路様

「最後の勝利」についての質問ありがとうございます。この問いに正しく答えるには、まず、最後とはいつなのかが明確になっていなければなりません。そして、勝利とは何かについても、抽象的ではなく、具体的でなければなりません。具体的とは、数値化するということです。

臨終正念を軸に考えると、最後とは「今この時」ということになります。永遠の生命という観点に立てば、最後という概念は存在しなくなります。終わりなき戦いこそが実態ではありますが、それではいつまで経ってもエンディングを迎えることは出来ない。そんなのは面白くなく、エンターテインメント性に欠けます。

最後については、自分で決めることが重要です。ちなみに私の最後は「100歳」と決めています。私は、100歳まで生きると勝手に決めており、毎日御祈念しています。では、100歳の時にどうなっていれば勝利といえるのか。ここを具体化できるかどうかにかかっています。

子路様が仰るように、広宣流布が盤石となり、池田先生直結の時代が到来することが勝利といえるでしょう。個人においても境涯革命を成し遂げていくことも重要です。ここでもう一歩踏み込み、「盤石」「池田先生直結の時代」「境涯革命」についても明確にしなければなりません。そうでなければ曖昧となり、勝利か敗北かわからなくなります。

100年足らずの一生で、出来ることには限りがあります。その中で、具体的に何を成し遂げるのか。何かを為すには境涯を変革することが必要になり、境涯革命は一念の変革を意味します。広宣流布を盤石にすること、池田先生直結の時代を創ることを目的とするならば、一念においては、「たとえ学会が邪教化したとしても、それらをすべてひっくり返し、善へと転換する覚悟」の一念の自分かどうか。この一念になれば、不求自得の境涯になります。

一面からいうと、祈るとは、「決断を下す」ということです。池田先生直結の時代を創るために、何を決断するのか。いつ(最後)までに、何を成し遂げるのかを決断すること。決めなければ戦いは始まらない。戦わない人生は敗北と同義です。私は具体的に数値化して決めており、実行している最中です。内容については、あえて企業秘密とさせていただきます。

人は縁(きっかけ)がなければ変わりません。創価三代を縁として、師弟不二の弟子が出現することは決まっています。それが因と果が同時の仏法の原理です。私の投稿目的も、「考えるきっかけ」の提供にあります。これは私にとって、広宣流布を盤石にする一つの具体的な行動(数値化できる)という位置づけになります。もちろん、奥の手はまだまだ隠し持っています。戦いのすべてを網羅すると、かえってつまらなくなるものなのです。

どこまでいっても信心は一念です。勝負と言っても一念がズレてしまえば、待っているのは敗北です。最後の勝利を願うならば、一念がおかしくならないように注意すること。そして、具体的に何を為すかを決断し、実行すること。この先にしか、笑って終われる最後はないのではないでしょうか。