投稿者:まなこ 投稿日:2017年 9月18日(月)08時26分11秒   通報
2 生命の永遠性

【池田】 生命は死後も存続するものか、それとも現世だけのものか、もし存続するとすれば、それは永遠のものか、有限のものか、またいかなる状態で存続するのか――という問題があります。これは生命について語るとき、どうしても直面しなければならない、最大のテーマでしょう。

【トインビー】 生命が永遠のものであるかどうかは、たしかに重大な問題です。と同時に、これには実証不可能な点がいくつか出てくるようです。

【池田】 そこに、古来、幾多の哲人、聖人が苦悶してきたゆえんがあると思います。生命が永続するものであるか否かを考えるうえでカギとなるのは“死”の問題ですが、私は、死後の生命に関する考え方は、大別して二つあると思います。つまり、一つは、死によって肉体が無機物に還元するときに生命そのものも同時に消滅してしまうという、唯物論的な考え方、もう一つは、唯心的な生命の“不滅”説です。

【トインビー】 人間の身体は死後無機物へと還元されるわけですが、そうした肉体的な死をもって命の終わりとしない点、仏教、ヒンズー教、ゾロアスター教、それに三つのユダヤ系宗教は、いずれも見解が一致しています。また、死後再び生命が現われるとき、もう一度肉体の形をとるとする点でも一致しています。これらの諸宗教は、死後に再び現われる人間の形態は、死ぬ以前の人間と同じく、心身統一体であるとしています。

【池田】 博士のあげられた、いわゆる“高等宗教”は、いずれも生命が死後も存続することを説います。しかし、その内容については、それぞれ非常に大きな違いがありますね。

【トインビー】 その通りです。たとえば、キリスト教信仰によれば、――これはパウロの使徒書中にも、福音書中のいわゆるイエス復活後の顕現にまつわる話にも説かれていることですが――、死者の復活した肉体や“最後の審判”の瞬間にたまたま生きている人間の変容した肉体は、われわれがふだん肉眼で見慣れている人間の肉体とは異なるというのです。この新たな肉体は、パウロの言い方によれば“霊的肉体”であり、イエスが復活後に再臨したさいの肉体がこれに当るということです。イエスは突然姿を現わし、突然に消え去る、彼は、閉ざされて錠の下りた扉をも通り抜ける、そして地上から雲のかなたへと昇天して見えなくなる――というのです。
また、これは私と同年輩のカトリック教徒たちの話ですが、最近聖母マリアの“被昇天”説が教理化され、それによると、マリアの肉体は、昇天したとされるイエスの肉体と同じく霊的肉体であり、われわれ人間の経験に映る現象としての肉体とは異なるものとみなされているそうです。

【池田】 キリスト教が、死者の復活した肉体を“霊的肉体”と名づけ、現実の人間の肉体と区別したことは、肉体を穢れたものと考える思想からきた教義だと思います。そのような教えは、他の宗教にもしばしば見受けられます。たとえば、南伝仏教、ないし小乗教においては、人間の欲望の巣ともいうべき肉体を滅しなければ、最高の境涯たる“涅槃”には入れない、と説かれています。

【トインビー】 仏教徒やヒンズー教徒は、人間は何度か生まれ変わることができるし、またそれが通常のことだとしていますね。それどころか、そうした再生の回数は無限でありうるし、たぶんこれまでにも無限に転生してきたのだと信じています。この信仰には、さらに、宇宙を永遠のものとみる信仰が含まれていると思われます。
ところが、四つの西洋の宗教にあっては、いずれも宇宙には――少なくとも現在の形の宇宙には――初めがあったのだから、やがては終わりもくるはずだと信じられています。また、人間が死後生まれ変わるのも一回限りであると信じられています。ただし、これらの諸宗教では、この一回だけの再生を永続的なものとしていますから、宇宙についても、初めがあったとしながらも、やはり、現在とは違った形で永遠に存続するものと信じているのです。

【池田】 つまり、諸宗教の死後の生命観を大別すると、仏教、ヒンズー教等で説く“輪廻”説と、キリスト教を中心とする西洋の宗教で説く“霊魂不滅”説の二つになるわけです。

【トインビー】 ええ。ところで、この二つの見方も、生命の不滅性について、ある点では一致しています。すなわち、われわれはこの世で短い一生を送るわけですが、その時間次元における人間の一生を時間的に延長したものをもって“不滅”と考える点です。
ヒンズー教では――また、ギリシア宗教のいくつかの流派でも――次のように考えています。すなわち、霊魂は、肉体に宿ってこの世に生(ないし一連の生)を享ける以前から、無限の長きにわたって存在していた、そしてこの世での肉体における死(ないし一連の死)の後も、無限に存在し続ける――と。南伝仏教も、このヒンズー教的見解と一致していますが、ただ、輪廻転生は、現世での人生における精神的努力によってとどめうる、とする点で違っています。
一方、キリスト教では、霊魂は母親の胎内に肉体が宿る瞬問に、神によって創造される、ただし、ひとたび創造された後は、死後も無限に存続していく――としています。このキリスト教の“不滅”の概念は、ヒンズー教的概念よりも合理性に欠けるように思われます。
とはいっても、人間の生活の場であるこの世界の時間次元において、人間は生まれる以前からすでに存在していたとか、死後も存在し続けるとかいうことは、私には信じられません。人間生活が営まれるのは、たしかに時間次元においてであり、また人間のカルマ(宿業)が生じるのも、時間次元での人間の行為によってです。しかしながら、私のいう“究極の精神的実在”が存在するのは時間次元ではなく、また人間のカルマがこの“究極の実在”に影響を与えるのも、時間次元においてではない、と私は想定しています。ただし、この点では、私自身、人間としての理解力の限界にきていることを感じます。