投稿者:まなこ 投稿日:2017年 9月 2日(土)10時02分11秒   通報
【池田】 そうした危険性をとらえて、民主主義に反対論を唱える人々がいるわけです。その主張するところは、大衆はすべて愚かであり、思考力や判断力をもたず、したがって指導者を選ぶ資格がないというのです。こうした理論を唱える人々の多くは、貴族主義者であり知的エリートであるようです。

たしかに、民主主義のもつ大きな欠陥の一つは、大衆に迎合して人気をとることの上手な人物が、それだけで権力の座にのし上がる危険性があることです。その反対に、賢明な指導者であっても、宣伝が下手であれば無視されやすいでしょう。これが極端な形をとると、民主主義を破壊して独裁権力を狙うような人間を民主的な方法で選んでしまって、すべてをこの人物に委ねてしまうことになります。大衆のすべてが参加する民主主義に対して反対議論が出てくるのは、こうした危険性に根拠があり、民主主義がそうした危険性をもっていることは私も否定しません。

しかし、だからといって大衆を“愚かなもの”と決めつけ、政治参加の場から遠ざけようとするのは、基本的に間違っているのではないでしょうか。私は、大衆が愚かさに陥るのを防ぐため最大の努力をするのが知的エリートの責任だと考えます。人間は誰しも愚かさをもっているものです。しかし、その愚かさは教育による知的・倫理的水準の向上によって、十分に取り除かれると信じるのです。それと同時に、私は、権力をなるべく分散して、極力これを民衆の手に引きおろすことが大衆の知性を刺激し、さらには彼らに自信をもたせることになる――その意味でもこれは大事なことであると考えます。
【トインビー】 民主主義を批判するのが、一般に貴族主義への同調者とか知的エリートとかいった人々であるとの御意見ですが、私は民主主義に対する信頼感の欠如は、実際にはより広範な層にわたってみられるのではないかと思います。本来、民主主義とは市民の完全な信頼感に支えられることを要求する制度ですが、にもかかわらず、この不可欠な信頼感を脅やかしているものが、大別して二つあります。そうした脅威の一つは恒常的なものであり、もう一つは今日の世界に特有なものです。

まず、恒常的な脅威とは、公僕としてふさわしい人物を選び出すことのむずかしさです。立憲政治は、いわゆる政治屋を生み出します。政治屋とは、つまり政治を一生の職業とし、選挙民を説得して権力を握り、政権の座にとどまるという技術にかけて、専門的になってしまう人種のことです。政治屋は、こうした専門的技術の修練によって、選挙には勝てるようになります。しかし、選挙民の尊敬を勝ち取ることはできません。選挙民は、政治屋を選出しながら、じつは軽蔑しているわけです。そして、こうした政治屋への不信は、さらに大きな不信へとつながります。

それは、政治屋が――選挙民の過ちからですが――ふさわしくない地位へと選出されてしまうような、立憲政体そのものに対する不信なのです。

最近、政治家の主張と実践の差にみられる信頼感の断絶が広がっています。大衆はすでに政治家の不誠実と不適格とを知り尽くしていますが、さりとて、より尊敬できる統治者をいかにして選ぶかについては、まだ知らずにいます。政治家に対する現在の広範な幻滅感は、その幻滅を改革へと転化できないことと相まって、民主主義を危難に陥らせているわけです。

次に、民主主義に対する現代世界特有の脅威とは、量と大きさの驚異的な増大です。これは二つの要因からもたらされるものです。すなわち、一つは人口爆発であり、もう一つは、技術の機能規模の拡大と、それによる生産量の増大です。

人間はいま、自分を取り囲む環境によって、自らの綾小化を感じています。社会的環境からも、技術の赫々たる成功が自然環境のうえに押しつけた人為的・物質的環境からも、そのことを感じさせられています。現代人の社会的環境は、絶望的なほど非人間的になっていますし、その物質的環境は、人間を押し潰すほど巨大化しています。こうした生活体験というものは、人間の能力から、社会の責任ある有効な参加者となりうる確信を、奪い去ってしまいます。そして、そこからくる懐疑は、人間の自尊心を低め、同時に、人間の倫理的水準を低下させてしまいます。

したがって、各個人を社会的に有効な存在として存続させることこそ、今日、最も重要なことなのです。これを可能ならしめるには、各個人に、現代の諸制度のもとでも社会的に力を発揮できるチャンスが与えられていることを、確信させなければなりません。そしてこの確信を与えるには、現代の諸制度を、正真正銘、誰もが参加できるものにしなければなりません。この誰もが参加できる制度をつくり出すということは、さきに述べたような不利な状況から、困難なこととはなるでしょうが、われわれはそれに対して絶望や、それにともなう諦めとか、消極性に屈してしまうことがあってはなりません。

たとえ現代世界の非常事態のゆえに、人類の自業自得の絶滅に代わる唯一の道として、一時的な世界独裁制が招来されることがあろうとも、われわれはなお共和制時代のローマ人から教訓を汲みとることができるはずです。彼らは、独裁制を必要とした非常事態が終わると、一時的な独裁制をただちに元の立憲政治に戻すことに、何度も成功しているのです。われわれの姿勢は、旅行中は指揮者の指図に身を託しながらも、危険な旅が終われば、当然のこととして、ただちに個人的行動の自由を回復する旅行者たちのそれと同じでなければなりません。
【池田】 人間はこれまで、一つの体制の悪に対してもう一つの体制を挑戦させることによって、その悪は解消できると考えてきました。ところが、かつての体制の悪を滅ぼした、善であるはずの体制に身を委ねたその瞬間から、新しい悪に苦しめられる結果となってきました。これは、日本の明治維新にしても、ロシア革命にしても、フランス革命にしても、同じことがいえるでしょう。もちろん、どんな体制でも同じだとは私も考えませんが、最も大事なことは、最大多数の人間がどこまでも主導権をもって、体制を従えさせようとする立場を見失わないことではないでしょうか。

いかなる体制といえども、本来、それがいかに人間の幸福のために貢献できるかということが、最大の基準であったはずです。したがって、いかなる体制をとるにせよ、そこで最も基本的な主導権を握るのは、最大多数の人間でなければなりません。もしこのことを忘れて、最大多数の人間が主導権を放棄してしまったら、いかに理想的な体制も、人間を圧迫する悪の体制となってしまうでしょう。
【池田】いかなる政治体制をとるべきかについては、私はその国の民族性、教育水準、国際的条件、経済的発展段階などとの関係において、その国に最も適した体制をとるのが正しいと思っています。たとえば、共産主義についていえば、国民の大多数が無産化して、少数の資本家による圧迫に苦しんできた国々においては歓迎されるでしょう。しかし、すでに大多数が有産化している国々では、あまり歓迎されないものです。つまり、その国の実情を無視して、一律にどの体制が良いとか悪いとか論じるのは、無意味だといえましょう。

ただし、いずれにせよ国民の知的水準、教育水準が向上して、経済的にも豊かになることは、例外なく賛同されるはずです。このように、知的にも経済的にも、国民生活が高い水準に達した場合、どのような体制が最も理想的となるか――これは、今後の非常に大きな問題です。まず、現在のところ、民主主義が最も理想に近いとされる点では、だいたい、衆目は一致していると思います。ただしこの体制には、知的水準とか経済的水準とかのものさしでは測れない、道義感というものが絡んでくるため、そこに問題があるわけですが――。