投稿者:まなこ 投稿日:2017年 7月31日(月)08時39分24秒   通報
7 民族再建と共産主義

【池田】 過去に偉大な文明を築き、人類の歴史に光彩を放ちながら、近世に入ってヨーロッパ諸国の植民地と化した国が、アジアにはいくつもあります。たとえば、中国やインドや西アジアの国々がそのような体験を経ているわけですが、これらの国の民族は、独立と主権を回復した今日でも、再建にあたっては苦悩の多い道を歩んでいます。
こうした過去の文明国のうち、現在、欧米先進国のレベルに急速に近づいているのは、中国だけのようです。インドや西アジアの国々の場合は、先進諸国自体がかなりの速度で進んでいるため、むしろ相対的にはギャップが拡大しているとさえいえるでしょう。この停滞の原因としては、政治的な不安定や、社会資本の蓄積が貧弱なことなど、種々の要素が考えられます。ところが中国は、共産党による支配体制を樹立して、政治的安定を得ました。それに、社会主義体制によって計画経済を実行し、社会資本の蓄積を強力に進めています。中国は、ここに自らの再建の軌道を完全に敷いたように思われます。
そこで、インドや西アジアも、中国にならって共産化する以外に、再建の道はないのか――という問題を考えたいと思います。
中国の場合は、もちろん、たんに共産化しただけでなく、そこには毛沢東という偉大な指導者がいました。この指導者の有無ということも、重要な条件として考えなければなりません。毛沢東は、マルクス・レーニン主義を中国の歴史的、精神的風土のなかで消化し、新しい民族国家を形成する原理を打ち出した優れた指導者であり、私は彼あるがゆえに中国革命は成功していると思っています。

【トインビー】 私は、共産主義は一つの宗教であり、とりわけユダヤ系諸宗教の新たな旗頭であるという分析をしています。共産主義には、その無神論的な語彙による変装の下に、ちゃんとユダヤ的神話が保たれています。ユダヤ系の全宗教を共通に特徴づけるものは、一つには、強固な組織と厳格な規律です。この面に、これら諸宗教の排他性、不寛容性が濃厚にあらわれています。
危機にさいしては、人々は規律を必要とし、それを甘受するものです。しかもあらゆる非西欧文明社会は、西欧文明がそれらに衝撃を与え始めてよりこのかた、ずっと危機にさらされてきたのです。この挑戦により、これら諸文明社会は、近代西欧が他の世界より一時的に優勢であった分野で――なかんずく技術の分野において――西欧に追いつくべく、強行軍を試みざるをえなくなりました。強行軍は、軍隊式の規律を要請します。そして共産主義は、まさにこの種の規律を与えてくれるものなのです。したがって、他文明の吸収同化という離れわざを試み、成し遂げなければならない社会にとっては、共産主義は有用な宗教となるわけです。まして、社会の自己変革が十分速やかに、かつ徹底的になされないと、その社会は全面的崩壊の危機に瀕してしまうという場合、とくにそのことがいえます。

【池田】 共産主義は、主として現世における社会的問題と取り組み、人間の生き方を規制する宗教であり、この点、これまでの宗教と異なっています。これまでの宗教が立脚していたのは、この現実を超えた観念についての信仰であり、この人生を超えた永遠なるものをめざしていました。共産主義は、死の彼方の問題については、ほとんどなにもいっていません。
そこで思うことは、再び中国の場合です。中国が比較的容易に共産主義を受け入れることができたのは、中国人には伝統的に合理主義的な思想があったからではないでしょうか。道教は神秘主義の色彩を相当にもっていますが、儒教はまったく合理主義的な政治哲学であり、人生哲学ともいうべきものです。そういう意味での非宗教的な精神性、合理主義的な思考の伝統が、マルクス・レーニン主義を受け入れるのを助けたのではないでしょうか。
この中国の場合と対照的なのが、西アジアのイスラム教世界だと思います。そこでは、アラーの神は、超絶的存在であると同時に、その立場から現実の社会と人生を強く規制しています。もちろん、イスラム教徒が絶対に共産主義を受け入れないとは断定できませんが、その精神的土壌から判断しますと、中国人に比べて受け入れがたいのではないかと思います。

【トインビー】 共産主義は、ある面では、科学的合理主義という近代西欧宗教のいかがわしい一変形であり、中国のように、その国在来の支配的伝統が――儒教のように――合理主義的、権威主義的であるような国では、比較的受け入れられやすいのです。
これまでのところ、イスラム教徒が共産主義に対して拒絶的であることは、はっきりしています。これはたしかに驚くべきことです。なぜなら、イスラム教は、ユダヤ系の宗教としては、キリスト教よりも合理的な宗教であり、また少なくともキリスト教と同じくらい権威主義的であるからです。ちなみに“イスラム”という言葉は“自己放棄”(帰依すること)を意味しています。
トルコ人は、中国人と同じように、かつて帝国を築いた誇り高い民族です。また彼らは、西欧文明を同化するにあたっての緩慢さを、かつて中国人に加えられたと同じような屈辱を嘗めることによって、贖ってきました。しかし、トルコ人は中国人と違って、最終的には、共産主義に頼ることなく自らの強行軍を行なったのです。アラブ民族は、トルコ人よりもはるかにひどい屈辱を味わってきました。しかし、彼らもまた共産主義に対しては、拒絶反応を示しています。彼らは、イスラエルとアメリカに対抗すべくソビエトから援助を受けている関係上、外面的には共産主義と妥協してきましたが、しかし内実は反発してきたのです。このようにイスラム圏が共産主義を受け入れようとしないことは、私には不可解でなりません。

【池田】 その点については、私は、こういうふうに考えることができると思うのです。つまり、イスラム教徒にとっては、服従すべき対象、すなわち権威が、アラーの神として、厳然と定まっています。しかも、この神は、たんに死の彼方の世界だけでなく、現実のこの社会と人生においても、強い規制力をもって君臨しております。したがって、別の服従の対象がそこに入り込む余地がないわけで、これがイスラム教徒の共産主義化を困難にしている理由ではないかと、私は推測するのですが、いかがでしょうか。