投稿者:まなこ 投稿日:2017年 6月13日(火)08時33分48秒   通報
◆ 5 国民総生産か国民総福祉か

【池田】 かつて第二次大戦後の冷戦時代においては、資本主義か社会主義かの論争が激しくなされ、社会主義陣営からは階級理論のうえから資本による搾取と不平等性が告発される一方、資本主義陣営からは一部の社会主義国家における暴力革命の恐怖や非人間性が強調されて、互いに相争ってきました。しかし最近では、資本主義も漸次、社会主義化の方向をたどり、また社会主義にも資本主義的手法が取り入れられて、個人の自由を認める方向に修正が加えられつつあるようです。社会主義国のなかではユーゴスラビア、資本主義国家としてはスウェーデンなどが、その典型的な例として注目されています。
さらに、最近の国際関係の多極化、大国間の歩み寄りなどによって、資本主義・社会主義の対立はその影をひそめつつあるとはいうものの、依然としてこれらが世界を二分する体制であることは否めません。しかもこの二大経済体制における欠陥の修正、相互の歩み寄りにしても、ではその行きつくべき理想の体制は何かとなると、いまだ人類は結論を得ていません。一応は、福祉社会、福祉国家の方向が模索されていますが、そこにも克服されなければならない矛盾があまりに多く含まれているようです。
これまで、利潤追求を第一義として、人間一人一人の幸福を犠牲にしてきた資本主義体制においても、画一的な平等をめざして、全体主義的な国家形態のもとに個々の人間の自由を強く抑圧してきた社会主義体制においても、ともに共通して欠けていたものは、人間生命の尊厳に対する認識ではなかったでしょうか。このことはまた、中間の道としての福祉国家体制についても同じことがいえます。たとえ従来の体制に修正を加え、福祉の向上を図っても、それはあくまで物質的福祉にすぎず、人間の尊厳に根ざした精神的福祉の面は、ほとんど保障されていないのが実情であるように思えるからです。
私は、経済体制については、資本主義であれ社会主義であれ、あるいは福祉経済であれ、計画経済、混合経済であれ、それぞれの民族、社会がその時に応じて最も適切なものを選んでいくのが正しいと思っています。ただし、それらの基盤には、人間生命の尊重を第一義とする価値観、また地球人類を全体としてとらえる視野がなければなりません。この人間生命の尊厳を価値基準に据えることによって、経済体制にも初めて抜本的な解決の糸口が与えられ、新しい視野が開かれるだろうと考えるのです。

【トインビー】 およそ人間事象の分野においては、人間の尊厳の維持こそが、われわれの目標でなければならず、またその目標達成に用いる手段の正誤判断の基準でなければなりません。人間の尊厳は、自由と平等とをともに要求します。この人間にとって必要な自由と平等とは、互いに排斥し合うものではありません。ところが、資本主義や社会主義の立場をとる人々は、これらが互いに排斥し合うものと考える誤りを犯してきました。それは、彼らのもつイデオロギーの視野が、いずれも経済の面だけに限られていたためです。人間の生活や行動は、数多くの異なる局面にわたって展開されており、そこにはそれぞれ独自の要求があるのです。
経済面においては平等性が必要ですし、貪欲の規制も必要です。したがって、経済面では、われわれは統制化を必要とします。まして人間の尊厳を守るためには、われわれは人類の経済活動が社会主義的に運営されることを黙認せざるをえないでしょう。これは、社会正義の実現のためにも、人類が存続するためにも、当然支払わなければならない代償です。これに対して、精神面においては、自由こそ人間の尊厳にとって不可欠なものです。ちょうど経済面において統制が不可欠であるのと同じです。
これを人間の身体の働きにたとえてみるならば、経済の統制化が人間を解放し、精神面での自由な活動をさせるのは、あたかも心身相関の生命体において、心臓や肺の自律的な機能が脳の自由な働きを助け、人体における意識や意志の座としての脳に、その役割を果たさせるようなものだといえましょう。

【池田】 資本主義も社会主義も、いずれもその視野が経済面に限定されたイデオロギーであるというただいまの御指摘は、非常に重要な意味をもっていると思います。現代人は往々にして、これらが本来、生産、経済の体制についての思想であることを忘れがちであり、経済が人間社会のあらゆる制度のなかにあっては、たんにその一部を占めるにすぎないことを見落としがちです。
この全体の、一部にすぎない経済が何にもまして優先され、人間の他の活動面、すなわち文化、教育、技術、政治などがこれに追従し、奉仕してきているところに、現代の大きな錯誤があるわけです。
経済成長の極大化は、すでに人間社会のあらゆる体系を地球的規模で崩壊させつつあります。経済のこうした独走を許すかぎり、人類はこの地球上から生存権を失うことになるでしょう。われわれは、いますぐにも、経済優先の考え方を改めなければなりません。そして経済には文化や教育に従属する立場を与え、あくまでも人間性豊かな文化社会を形成することに全力を傾注すべきでしょう。そのようにして築かれた高度な文化社会にあっては、経済の果たす役割も、人間精神の向上のため、人間の創造性発揮のための、土台ないし潤滑油的なものとなるはずです。
私は、未来の経済理論も体制論も、こうしたより本源的な次元から考察を進めるべきだと考えます。そうするならば、経済の統制や経済活動の管理・計画が人間社会にとって不可欠な要請であるということも、より重い意味をもつようになるのではないでしょうか。また資本主義社会において、社会主義的手法を有効に取り入れることの意義も、より鮮明になると思います。
こうして、経済の統制にしろ、計画・管理にしろ、すべて人間自身のためという前提から行なわれる必要があります。もしこの原点を忘れ、計画や管理それ自体が自己目的化するならば、全体主義的、独裁的色彩が強く現われ、非人間的な側面を押し出す結果となるでしょう。さらに、地球の資源を保護しつつ効果的に使用し、破壊や汚染から救っていくためには、経済の計画的運用もすべて地球的規模で行なうことが大事です。こうした壮大な構想を実現するためには、やはり究極的にはその根底に哲学、宗教が必要となってくるでしょう。

【トインビー】 御意見に異論ありません。私の二十一世紀への願いは、経済面では社会主義的でありながら、精神面では自由主義的な、全地球的人間社会が建設されることです。
一個人や一社会の経済的な自由は、往々にして他の個人や他の社会の自由を奪うことがあります。しかし、精神面での自由には、そうした弊害がありません。すべての人が他人の自由を侵害せずに、しかも精神的に自由であることが可能です。それどころか、精神的自由が広まることこそ、人間相互の豊かさを増し、貧困化を防ぐ道なのです。