投稿者:まなこ 投稿日:2017年 6月 2日(金)09時43分32秒   通報
【トインビー】 その後の三十三年間というもの、私は、イギリスの民間学術協会である「王立国際問題研究所」で、国際事情に関する年報を執筆して生計を立てました。委託の条件は、調査はすべからく科学的であること、つまり、感情をまじえず、一党一派に偏せず、公平無私でなければならないということでした。私は、これはよい指示だと思いました。つまり、その指示さえ守れば、私は、国際情勢一般や、その当事者たちの立場なり動機に関して、有用な情報を読者に提供できると考えたのです。私は、できるかぎりこの指示に従いました。しかし、なかにはそれが不可能な場合も出てきました。
たとえば、スケルト川河口の領土権、航海権をめぐるベルギー・オランダ間の紛争を調査したさいなどは、科学的な報告も可能でした。そこでは法律上の問題がほとんどを占めており、道義上の問題は、あまり絡んでいなかったからです。
ところが、ヒトラーによるユダヤ人の大量虐殺といった問題になると話は別でした。これに関しては公平無私ということはありえない、と私には思えたのです。もし、このユダヤ人大量虐殺を、まるで天気予報でもやるような調子で、感情をまじえずに書いたとしたら、それはこの虐殺問題を公正に記録したことにはなりません。道義的な問題を無視して、ユダヤ人虐殺を黙認したことになってしまうからです。
これと同じ問題にぶつかったのは、ムッソリーニによる一方的なエチオピア不法侵攻について論述したときです。そして、このとき私自身に直接面倒が起きたのです。というのは、この問題に関してイギリス政府が演じた役割は、私には道義上恥ずべきものに思われましたので、論評のなかで、私は自分の道義的判断を包み隠さずに述べたのです。エチオピア事件について、道義面を無視して書いたとしたら、それはこの問題を真実に論述したことにはならないでしょう。
当然のことながら、私はイギリス政府の立場をまずくしたということで、国内から非難を浴びました。このとき、もし、私の勤務先である国際問題研究所の評議会議長が、国際問題について見たままに書くのは当然の義務であり権利である、という裁定をしてくれなかったら、私は学問の自由をめぐって再び辞職を余儀なくされていたことでしょう。
私の結論を総括的に申しますと、人間事象の論述にあたっては、完全に感情を抜きにして不偏不党になることは不可能だということです。なぜなら、そこでは道義的な問題が顕著にあらわれやすく、事実そうなりますから、そのような場合に道義的判断を抜きにして出来事を記録するということは、不可能になるからです。完全に科学的な記述ができるのは、人間が介在していない事実や事象の場合に限られるのです。
以上二つのケースでは、私はいずれの場合も自らすすんで関与を求めたわけではありません。しかし、道義的にどうしても避けられないと感じたからこそ、私は心に正しいと感じたままの立場をとったまでのことです。これが、私にとっての中道でした。

【池田】 その点は、たしかに博士のおっしゃる通りだと思います。自然科学においては、客観的で公正な方法論が尊重されても、人間事象にかかわる社会科学や人文科学においては、倫理的判断を無視することはできません。
現代の学問は、すべてを科学的に分析しようとして、そこに人間性の、もっと大切なものを忘れているように思えます。私は、人間とは、思想により理念を形成し、理想を設定し、それへ向かって努力する存在であり、ここに人間の尊さがあると思うのです。いま現実にどうであるかという分析、真偽の判断も、もちろん大事です。しかし、それらも、これからどうあるべきかという理想があり、それを実現するにはどうすべきかの判断基準にするために必要なのです。私は、人間とは理想を追う存在であるということを踏まえ、しかも現実性を重んじていく――この両方を包含していくのが中道であり、正しい考え方であると考えます。