投稿者:一人のSGI 投稿日:2018年 2月20日(火)18時45分33秒   通報
そこで、その末法の凡夫を一気に救おうというのが第九識です。

第九識について、せっかくですので今はもう廃版になっていると思われますが、昭和43年に発行された、
「日蓮正宗 教学小辞典 創価学会教学部編」に詳しく載っていますのでその部分を転載します。

―  天台、華厳宗ではさらに、染浄含蔵(けがれているのと清いのとが一緒になっている)の第八識に対して、真浄識、根本浄識を立て、これを第九識として染と浄を含蔵する第八識と区別している。
ゆえに天台、華厳においては、第九識をもって清浄無染の根本識、すなわち心王というのである。

心王とは心の主作用をいい、心王に対する語は心数といって、心の伴作用をいう。
真如とは真実にして虚妄をはなれ、不変不改であるのを真如という。
すなわち、心王の住所なるゆえに都といい、九識は真如の本識なるがゆえに真如の都といわれる。

日向記(八〇八ページ)にいわく「究竟即とは九識本覚の異名なり、九識本法の都とは法華の行者の住所なり」また同じく(八二六ページ)「この九識法性とは、いかなる所の法界を指すや、法界とは十界なり、十界即諸法なり、此の諸法の当体本有の妙法蓮華経なり、此の重に迷う衆生の為に、一仏現じて分別説三するは、九識本法の都を立出ずるなり、さて終に本の
九識に引入する、夫れを法華経とは云うなり」

日如御前御返事(一二四四ページ)にいわく、「此の御本尊全く余所に求る事なかれ、只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり、是を、九識心王真如の都とは申すなり」

九識とは識を分ければ六識は二乗、八識は菩薩、九識は仏である。
また御本尊第一の純真な信心の姿、清らかな心で不幸な人を救おうというその心を九識という。

転載終わり