投稿者:生涯&広布一筋兄弟メール 投稿日:2017年 8月14日(月)01時00分4秒   通報
先生指導「釈迦仏教の滅亡」より再掲

民衆ほど大切なものはない。民衆の大地から離れて栄え続けたものもない。

仏教も本来、民衆の幸福のために、民衆の中で説かれ、広がった。

しかし、釈尊入滅後、仏教は次第に民衆救済の精神から遠ざかっていった。

それは、一体なぜか。

その一つの表れとして、「解釈学の先行」をあげる研究者がいる。

釈尊自身は。その悟りを巧みな比喩等を使って、優しく説いた。

また、卓越した慈悲の人格によって、人々を教化した。

ゆえに、難解な仏教の法理を理解できない人々も、釈尊の、時に応じ、

人に応じ、所に応じた「自在な説得力」と、「偉大な人間性」によって、

仏教に帰依することができた。

しかし釈尊入滅後、仏教教団は、仏説の解釈や教理について、煩雑な議論を繰り返し、

見解の相違から多くの部派に分裂していった。いわゆる「部派仏教」の時代である。
そうした中、実践者として「民衆の中に入り」「民衆の苦を救う」という釈尊の真意から、

遠くかけ離れたものになっていった。その後、こうした傾向への反省から、大乗仏教が興隆した。

しかし、大勢として、インド仏教の民衆遊離の傾向は変わらなかった。

ともあれ、民衆を忘れ、現実を離れて、いたずらに空理空論を弄ぶ姿の中には、

既に仏法の精神は完全に失われている。

最も重大なことは”一人”の人間を心から蘇生させていくことだ。

また、正法を”広宣流布”することである。

さらに、正しく信・行・学の修行を貫き通していくことである。そこに一切がある。

いかに難解な論理をあやつり、深淵めいた言葉で自信を飾ったとしても、

広布への実践無き人を、決して信じてはならない。騙されてはならない。

そうした人間がこれまでにも多大な害毒を撒き散らしたことは、皆様がご承知の通りである。

一時、教学部の幹部であった退転者もこの部類であった。

また、これからも同類のものが現れてくることもあるに違いない。

いかに、素晴らしい哲学でも、民衆に分からなければ価値がない。

いわゆる難解な論が優れているのではない。決して尊いのでもない。

逆である。最も深淵な哲理を、最も、やさしく説く人こそ、真実の仏法者なのである。

また、広宣流布の指導者なのである。

<引用終わり>

我らの使命は苦悩に沈む隣人、友人、民衆に大聖人の教えを伝え救うこと。

そうした菩薩行の中に全ての功徳、宿命転換がある。これは絶対に間違いのない事実・実証。

流浪の民として生まれて来なければならなかった人々、

生まれて一口も食することができず亡くなる赤ちゃん達。

利を求め努力しても、苦労が実らない人。生まれつきの難病で生まれてくる人。

交通事故や災害で命を落とす宿命を背負っている人。生まれつき醜く埋めれてくる人。

貧困の家に生まれ、路上で寝なければならない人。

トイレも亡く、水も亡く、貧素な生活をする過程に生まれてくる人。

一生涯、差別され続けながら生きていかなければならない人・・

紛争の下で生きていかなければならない人

人それぞれ、宿業を持って生まれて、生まれる場所も、生まれ方も各人各様

塗炭の苦しみに生きている人々全世界に多い。なぜ、そうした宿業を持って生まれてくるのか

その宿命は転換できるのか・・

ここに大聖人の仏法、法華経の誕生の意味がある。

大聖人の仏法・御本尊・就中、三大師匠が築いた創価学会、創価教義(人間革命・宿命転換)

幸福製造機論に誤りはない。