投稿者:赤胴鈴之助 投稿日:2017年 8月12日(土)06時45分7秒   通報
「信頼できる人」との評価がもたらした活躍の舞台 P72

池田
ムハンマドの話に戻りますが、啓示にふれたムハンマドは驚き、苦悩します・その

ムハンマドを、妻ハディージャが励まし、神の使徒として生きることを説き勧めた。そし

て、彼女が最初の教団のメンバーになります。

テヘラニアン ムハンマドが広めようとした教えは、最初はメッカの人々に受け入れられ
ませんでした。

池田
メッカは中国、インドと地中海沿岸を結ぶ交易ルートの一大拠点として繁栄して
いました。

しかし、それだけに貧富の差も大きかったと思われます。

当時の生活倫理は、高名な東洋学者である井筒俊彦博士によれば「全ては過去によって

決定される」(『イスラーム生誕』、中公文庫)と考えることにありました。

「過去」とは”自分たちの祖先が幾百年となく履(ふ)み行ってきた人生の道”であり、

アラビア語では「スンナ(慣行)」というそうですね。

テヘラニアン
血縁の共同体的慣習をすべての基礎、中心とする考え方が、ゆきわたっていたのです。

ムハンマドの革新思想は、このようなメッカの貴族主義的傾向を打ち破るものだったと

いえるでしょう。

ムハンマドは、人間の高貴さは血筋などではなく信仰の深さによって決まり、いかなる

人間も唯一神アッラーの下に平等である、と主張しました。

池田
当然、裕福で保守的な人々は、ムハンマドを自分たちの社会の基盤を侵す者として

危険視したが、貧しい人々や庶民はムハンマドに同調した。

とくに若い人たちに支持者が多かったともいわれます。

最初、無視や嘲笑を続けていた既存権力は、やがてムハンマドの勢力が無視できない

ようになると、ムハンマドとそれに従う者たちに迫害を加えるようになりました。

テヘラニアン
その思想の革新性に気づいたのです。

信者とその家族の多くは、エチオピアなどに逃れました。さらに不幸なことに、ムハン

マドの最大の理解者である妻ハディージャが亡くなりました。

また、父母を失った幼いムハンマドを引き取って養育した、叔父のアブー・タリーブも

逝去します。

池田
ムハンマドは宗教者としての人生においても、私的人生においても、最大の困難に

遭遇したわけですね。

テヘラニアン
ええ。ムハンマドはそれから大胆にもメッカを離れ、北に三〇〇キロメートル以上も離れた

都市メディナに移ることになります。これが「ヒジュラ(せいせん聖遷)」です。

イスラム暦は、ここから始まります。イスラムの時代の始まりを意味するものです。

池田
ムハンマドは、メディナで奇跡ともいうべき成功を収め、死までの十年あまりをこ

こで過ごしました。

人脈のほとんどなかったメディナで、ムハンマドがめざましい栄光を勝ち得たのは、な

ぜでしょうか。

テヘラニアン
当時、ムハンマドのメディナへの脱出以前には、アラビア半島各地で、部族間の絶え間ない

戦いが行われていました。

メディナでも、ユダヤとアラブの有力な数部族が、長いあいだ対立し、抗争を繰り返し

ていました。そこで、長年の対立の調停者として、ムハンマドが選ばれたのです。

池田
メディナの人々は、なぜ調停者としてムハンマドを選んだのでしょうか。

テヘラニアン
彼らはどの部族も、ムハンマドが正直者であるという評判を聞き及んでいたのです。

そこで、彼を部族間の調停者として招いたのです。

池田
たしかに、ムハンマドは不遇な商人だった時代に、メッカの人々から「アミーン」、

つまり「信頼できる人」と呼ばれ、一目置かれる存在だったといわれていますね。

その人格がムハンマドの窮地を救い、メディナという活躍の舞台、新天地を与えた。

人徳が最高の財産であり、困難なときの最大の支えとなったということですね。