投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年 2月 4日(水)09時38分12秒  

三谷を通して、日蓮仏法の「立正安国論」に出会ってからの牧口先生の人生は、
まさに「立正安国論」に始まり「立正安国論」に終わるという人生そのものだったように思います。

初代会長の獄死という「殉教」を通して、
創価学会は日蓮仏法の正統として、その法脈を引き継ぎました。

法門や御本尊を護持しながらも、広宣流布への精神を忘れていた日蓮正宗を、
在家信徒である創価学会が宗祖の精神に立ち返らせようとしたのです。

不二の弟子であった戸田先生は「創価学会の歴史と確信」の中で次のように述べています。
少し長いですが、大事なところなので引用します。

「創価学会が、初代会長牧口常三郎先生に率いられて、
大法弘通のために立たれたときは、罰ということを正宗信者が忘れていたときである。
牧口先生は罰論をもって大法を弘通せんとし、内外にこれを説いて、あらゆる難にあったのである。

罰論を説くのは、日蓮正宗の教義に背くものとして攻撃した僧侶すらあったのである。
牧口先生は、敢然として法罰の恐ろしさ、法罰厳然たるを説いてゆずらずして、
ご一生を終わったのである。

『御本尊様は偉大な力がおありになる。罰なくして大利益があるわけがない。
子をしかる力のない父が、子に幸福を与えられない。御本尊様をじっと拝んでみよ。
「若し悩乱せん者は頭七分に破れん」との御本尊様のおおせが聞こえないか。
御本尊様が罰をおおせではないか』とは先生の持論で、私も先生の持論は正しいとおもう。

これに反対する者は、大御本尊の威力を信じない者であり、これこそ、釈迦仏法のやさしい
慈悲のすがたのみをあこがれる文上仏法のやからで、日蓮正宗の正流ではない」
(戸田城聖全集第三巻一〇二頁)――と。

また
「利益と罰は、われわれ日常の真実の生活であり、価値生活の全体である。
この尊いことを忘れておって、牧口先生がこれを説くや、おどろきあわてた連中のすがたは、
いま思い出してもこっけいのきわみである。

そして、いまごろになって、むかしから知っていたような顔をしている悪侶もあるのにはおどろくのである。
今日にいたって、なお、これを思い出さない愚侶もいるのには、
おどろくというより無知を悲しむものである」(同一〇三頁)――。