投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年 2月 3日(火)11時41分27秒  

戸田先生は「創価学会の歴史と確信」のなかで、その時の宗門のあわてぶりをこう述べています。

「まことに大聖人のご金言はおそるべく、権力はおそるべきものではない。
牧口会長の烈々たるこの気迫ありといえども、狂人の軍部は、ついに罪なくして罪人として、
ただ天照大神をまつらぬという『とが』で、学会の幹部二十一人が投獄されたのである。

このとき、信者一同のおどろき、あわてかた、御本山一統のあわてぶり、
あとで聞くもおかしく、みるもはずかしき次第であった。

牧口・戸田の一門は登山を禁ぜられ、世をあげて国賊の家とののしられたのは、
時とはいえ、こっけいなものであった」(戸田城聖全集第三巻一〇七頁)――と。

牧口先生は、連日、取り調べを受けたあと、
同年九月二十五日に身柄は、巣鴨にあった東京拘置所に移されます。

宗教関係等の検挙者の場合、検事が裁判の必要があると認めれば
東京巣鴨拘置所に拘留されたのです。

この東京巣鴨拘置所から留守宅の家族にあてた「獄中書簡」である手紙は、
現在残っているもので三十一通あります。

この三十一通の獄中書簡は、「牧口常三郎全集十巻」に収録されています。

その獄中書簡の文面に「十日に一度手紙」と牧口先生自身が記しているように、
獄中内から家族たちに出す手紙は十日に一度、一通と決められていました。

各舎には、文字を書く部屋があったものの、手紙を書く時間は限られていました。
それも開いた状態のドアの外で看守が監視し、そのうえでなお検閲がされるのです。

事実、獄中からの葉書には検閲済みの印が押されており、
手紙によっては所々、文面が黒く削除されています。

官憲の厳しい思想統治下で、獄中にあってもっと学会のこと、
会員の消息等について知りたかったでしょうし、
書きたかったであろう牧口先生が、自身の思いを文に託すことを制約
しなければならなかった状況にあったのです。

だから、検閲を受けることを念頭において手紙の内容を表現せざるをえなかったと思います。