投稿者:生涯&広布一筋兄弟メール 投稿日:2017年 5月17日(水)12時45分14秒   通報 編集済
戸田城聖全集 第三卷より

利益と罰は、我々日常の真実の生活であり、価値生活の全体である。
この尊い事を忘れおって、牧口先生がこれを説くや、おどろきあわてた連中の姿は、今思い出してもこっけいのきわみである。

そして、いまごろになって、昔から知っていたような顔をしている悪侶もあるのにはおどろくのである。
今日に至って、なお、これを思い出さない愚侶(ぐりょ)もいるのにはおどろくというより無知を悲しむのである。

聖人御難事に大聖人の御おおせにいわく、
「過去現在の末法の法華経の行者を軽賤(きょうせん)する王臣万民始めは事なきようにて終(つい)にほろびざるは候わず」
(御書全集一一九〇㌻)と。

大法に背く者に厳然と罰ありとの御聖訓ではないか。
誰が、これを否定いたしましょうぞ。否定する事は謗法であり、悪人、愚人の証明となるではないか。

また大聖人のおおせには、
「太田の親昌(ちかまさ)・長崎次郎兵衛の尉時綱(じょうときつな)・大進房が落馬等は法華経の罰の現るるか、

罰は総罰・別罰・顕罰・冥(みょう)罰・四候、

日本国の大疫病と大けかちと同士討ちと他国よりせめらるるは総ばつなり、

やくびょうは冥罰なり、太田等は現罰なり、別ばつなり、

各々師子王の心を取りい出して、いかに人おどすともおづる事なかれ」
(御書一一九〇㌻)と。

牧口先生は、この御書をお心として、おどしてもおじず、おどろかず、法罰を説いて内外の難をこうむったのである。