投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年 2月11日(水)09時25分7秒  

また、開目抄に
「涅槃経に云く『我涅槃の後、乃至正法滅して後、像法の中に於て当に比丘有るべし。
持律に似像して少かに経を読誦し、飲食を貪嗜し、其の身を長養す。
袈裟を服ると雖も、猶猟師の細視徐行するが如く、猫の鼠を伺うが如し。常に是の言を唱えん。

我、羅漢を得たりと。外には賢善を現わし、内には貪嫉を懐かん。
唖法を受けたる婆羅門等の如し。実に沙門に非ずして沙門の像を現じ、
邪見熾盛にして正法を誹謗せん』」(二二五頁)
とあります。

この涅槃経に描かれた正法を誹謗する人物は誰ですか。
誰がこのような仏敵を倒すのですか――。

それは
「涅槃経と申す経に云く『法に依つて人に依らざれ』」(報恩抄二九四頁)
を忠実に実践している池田門下の真正の弟子以外にありません。

涅槃経には
「『身は軽く法は重し。身を死して法を弘む』と見えたり」(松野殿御返事一三八六頁)とあります。

また、戸田先生は
「第三代会長を守れ! 絶対に一生涯守れ!そうすれば、必ず広宣流布できる」と遺言されました。

これらの師子吼を心に刻む弟子ならば、いったい何を守るのか、何を継承するのか――。
この問題について再度、確認し合い、考える事がもっとも最重要の課題ではないでしょうか。

それには二つの面があると思います。

――時間と空間に制約された肉体の釈尊。

――時間と空間を超越した法としての釈尊。

当時の在家信者たちは、釈尊の遺骸を荼毘に付し、それを仏舎利にして受け継ぎました。

一方、出家者たちは釈尊の法を継いだ。しかし、百年も過ぎると根本分裂が起きます。
それは法の解釈論がことの発端でした。
そして、小乗部たちは「法の訓詁註釈」に縛られ、民衆から離れていきました。

それに対して、大乗部たちは「法の依義判文」を展開しながら、民衆に仏法を弘め、
仏法を哲学的に昇華させ、釈尊の精神を守り継承しました。