投稿者:一人のSGI 投稿日:2017年 2月23日(木)14時59分56秒   通報
講義

本章は、仏道修行の根本指針を示された段であり、この「兄弟抄」の中でも、とくに重要な中核をなす部分である。

一往、天台仏法に例を借りて説かれているが、末法の正意であられたことは「門家の明鏡なり謹んで習い伝えて未来の資糧とせよ」と仰せによっても疑う余地がない。

天台大師は、五時八教の教判を明らかにし、釈尊一代仏教の中で、法華経が最第一であることを宣揚した。

これによって、当時、中国にはびこり、おのおの勝手な義を唱えていた南三北七の各流派は、ことごとくその立義を打ち破られたのである。

さらに、天台大師は、この釈迦一代仏教の肝心たる法華経の中から、百界千如・一念三千の法門を取り出し、像法の時にかなった修行として、一心三観・一念三千の観念観法を打ち立てた。天台大師が、薬王の再誕といわれ、像法の正師、小釈迦と称えられるのは、まさに、この一念三千の法門ゆえである。

客観的にみても、生命について、これほど厳密に、鋭く、深く分析し、その相貌を明らかにし、しかして壮大な理論体系を打ち立てたものは、他に例がない。

だが、天台の一念三千といっても、あくまでも、それは観念観法によって己心に描くのである。その一念三千の相貌は、末法に入って、日蓮大聖人が御出現になることにより、はじめて樹立されるのである。

観心本尊抄にいわく「一念三千を識らざる者には仏・大慈悲を起し五字の内に此の珠を裹み末代幼稚の頚に懸けさしめ給う」(0254-18)と。ここに「仏」とは末法の御本仏たる日蓮大聖人御自身であり、「五字」とは三大秘法の御本尊である。

したがって「此の法門を申すには必ず魔出来すべし魔競はずば正法と知るべからず」と仰せの「此の法門」とは、事の一念三千たる三大秘法の大白法をさす。事実、天台大師自身も、天台の正義を受け継いだ妙楽や伝教等も、三障四魔を身に受けていない。まさに、三障四魔紛然の言葉を、事実の上に読まれたのは、日蓮大聖人にほかならないのである。

いま本文に「此の釈は日蓮が身に当るのみならず門家の明鏡なり」と申されていることもこのことを述べられているのである。
師たる日蓮大聖人の御生涯が三障四魔との激闘の連続であったように、大聖人の弟子として、末法の大仏法を受持した門家一同も、また、三障四魔との戦いの人生であることは、当然、覚悟の上でなくてはなるまい。

兵衛志殿御返事にいわく「しをのひると・みつと月の出づると・いると・夏と秋と冬と春とのさかひには必ず相違する事あり凡夫の仏になる又かくのごとし、必ず三障四魔と申す障いできたれば賢者はよろこび愚者は退くこれなり」(1091-15)と。