投稿者:無冠 投稿日:2017年 2月23日(木)08時18分45秒   通報
私の『本幹スピーチ指導選集』より
「大山」の章では先生の”心”が伝わってまいりません。
代筆の方に一言 ――― 代筆である事は充分判ります。ご安心ください。
検閲する者は、先生の”心”を理解できていないのでしょう。

★昭和54年4月24日
昭和54年4月、私が会長を辞任した時にも、妻は、いつもと変わらぬ笑顔であった。
「ああ、そうですか…。ご苦労様でした。健康でよかったですね」と語っていた。
私自身は、微塵も動じなかった。かわいそうなのは、健気な学会員である。
会長辞任直後の5月3日、創価大学で行われた本部総会の空気を、私は忘れることができない。
あの時、極悪の反逆者が宗門の坊主らと結託し、陰諜をめぐらした。
私が会長では邪魔である。悪事を働くことができない。だから、会長を辞めさせてしまえ──。
本当に増上慢と嫉妬ほど恐ろしいものはない。害毒中の害毒である。
会長を辞めた私には、本部に指揮を執るための席はなかった。
5月3日の総会を終えた私は、妻とともに神奈川へ向かった。神奈川には、世界に開かれた海がある。
これからは世界だ。小さな日本など見おろして世界を舞台に戦うのだ。そういう思いであった。
ともあれ、どんな状況にあっても、私は大局観に立って、あらゆる手を打ち、行動してきた。
私は健在であり、厳然と未来を開いた。常に先頭に立ち、広布に生きる方々とともに、学会員の尊い心をだれよりも守り、稀有の広宣流布の組織をつくってきたつもりである。
今、これだけの力ある民衆の団結は、学会以外にない。
最高幹部が、悪人と戦う厳しさを失ったり、広宣流布と関係ない事柄でいい気になったり、苦労をしなくなる。そのようなことは、断じてあってはならない。愚かであってはならない。
同志が一番喜び、威光勢力を増すように、智慧を尽くして、新しい学会をつくっていこう!(大拍手)
(2007.10.12 新時代第11回本部幹部会)

★昭和54年4月24日
また昭和54年(1979年)、私が会長の辞任を余儀なくされたときに、最も強い怒りの声をあげてくれたのも、関西の同志であった(大拍手)。
あの折、会員の皆様からいただいたお手紙やご報告を、私は丁寧に保管している。
「あの方は、今、どうしておられるだろう」「あの方は、元気でおられるだろうかと心に浮かぶ。
今も近況を教えていただくことが多い。
昭和54年4月24日、会長辞任のその夜。守口門真(もりぐち かどま)文化会館で、大阪の緊急本部長会が開催された。
この夜、西口総関西長(当時、関西長)は、かつて、理事長を辞任された戸田先生に、私が贈った一首の和歌を、皆の前で朗読した。
『 古の 奇しき縁に 仕えしを 人は変れど われは変らじ 』
そして、西口君は叫んだ。
「たとえ池田先生が会長職を辞めても、関西の私たちの師匠は永遠に池田先生です!」  (2007.11.8 新時代第12回本部幹部会)

★昭和54年4月24日
私は、昭和54年の4月24日、第3代会長を辞任した。
その背後には、広宣流布に命を捧げてきた私の心など知ろうともしない、野心と嫉妬の輩による卑劣な陰謀があったことは、皆さんがご存じの通りだ。
理不尽極まる辞任の日の夜、自宅に戻った私を、妻は、いつものように、ニコニコと微笑みながら迎えてくれた。
(2007.11.8 新時代第12回本部幹部会)

★昭和54年4月24日
昭和54年(1979年)4月、私は会長の辞任を余儀なくされた。狂った反逆者と邪宗門が結託して、何の罪もない私を追い落とそうとしたのである。
いわば、学会は絶頂期であり、いよいよこれからが総仕上げという、大切な時であった。
卑劣な仕打ちにも、私は会員のために耐えようと決めた。
私を陥れ、私利私欲のために学会を利用しようとした人間たちが、今、どうなっているか。皆、哀れな末路をたどっている。仏法は本当に厳しい。
(2008.3.5 新時代第16回本部幹部会)

★昭和54年4月24日
思えば、私が第3代会長の在任中に授与された名誉学術称号は、モスクワ大学の「名誉博士」一つであった。それ以外は、すべて会長辞任(1979年〈昭和54年〉4月)後に拝受した栄誉である。
会長を辞任した時、周りは敵ばかりであった。私に対してヤキモチを焼き、何とかして私を陥れよう、引きずり落とそうとする人間がいた。卑劣な策略が渦巻いていた。
己の野心や身勝手な欲望のために、師匠を裏切り、学会を裏切る人間も出た。
そうした中、私はただ一人、戸田先生の真実の弟子として「正義」を守り抜いた。日蓮大聖人の仰せのままに、立ち上がった。
私は世界を舞台にして、新たな平和への闘争を開始した。平和・文化・教育の人間主義の連帯を広げるために、一つ一つ、手を打っていった。
なすべき仕事を、地道になしていった。世界の知性は、それを、ちゃんと見てくださっていたのである。
また、これらの栄誉は各国で活躍し、見事な信頼を勝ち取っておられる全同志のおかげであり、すべて皆様を代表してお受けしたものである。
SGI(創価学会インタナショナル)の会長である私が、一国の最高学府から名誉学術称号を拝受すれば、その国の同志の大きな喜びとなる。誇りとなる。胸を張って、さらにSGIの活動に取り組んでいける。
すべてに大きな意味があることを、皆さんには知っておいていただきたい。
(2008.6.18 新時代第19回本部幹部会)

★昭和54年4月24日
「私自身、第3代会長を辞任した際、学会本部に私の指揮を執るべき席はなく、小さな管理者室で執務を続けたこともあった。
しかし、いかなる立場になろうとも、「会員のため」「学会のため」とのわが信念は、揺らぐことはなかった。私は少しも変わらずに働き続けた。
この嵐の渦中にも、私の妻は、明るい笑顔で、「これからは、今までお会いできなかった同志の皆さんのお宅に行けますね。海外の皆さんともお会いできますね」と言って支えてくれた。
また、ある時は、私の前で、毅然として「あなたが戸田先生に命を捧げて、学会をここまで大きくしたことは、だれよりも、私が存じ上げています。御本尊様が、すべて見通しておられます」と語ったこともあった。
(2008.6.18 新時代第19回本部幹部会)

★昭和54年4月24日
師弟あるかぎり、学会は崩れない。
それを分断し、壊そうとするのが、恐るべき魔の正体である。
昭和54年(1979年)5月3日、私の実質的な会長辞任の総会となった本部総会が、東京の八王子で行われた。大難の嵐が吹き荒れるなかであった。
ちょうど、その日の読売新聞に、日本とアメリカの、国民の「生活意識」を調査した結果が掲載された。日本人の「尊敬する人物」が紹介されており、その第6位に、私の名前が出ていた。ある人が笑顔で教えてくれた。〈存命中民間人では第1位〉
不思議なタイミングでの出来事であった。
御聖訓には、三障四魔は「紛らわしく入り乱れて競い起こる」(御書1087ページ、通解)と説かれている。
私たちは、そういう動きを見破る鋭さを持たねばならない。愚かではいけない。
皆で、素晴らしい学会をつくろう!〈会場から「ハイ!」と返事が〉
皆が「師と同じ心」で進む。それが三代の師弟の心であり、願いである。大聖人、釈尊の心に連なる「正義」の心である。それが「慢心」を打ち破る力となる。
(2008.9.3 新時代第21回本部幹部会)

★昭和54年4月24日
昭和54年(1979年)、迫害の嵐のなか、私は、学会本部ではなく、神奈川文化会館で指揮を執った。
この正義の天地から広々とした海を見つめながら、私は、反転攻勢を決意し、世界広布への新たな布石を一つまた一つと打っていったのである。
(2008.9.30 新時代第22回本部幹部会)

★昭和54年4月24日
昭和54年(1979年)、会長を”勇退”した時、私は最も力がみなぎった時期であった。国内で、また国外で、学会に対する社会的な信頼が高まっていた時期でもあった。 その時に、学会を壊そうとする嫉妬の動きが起きたのである。「猶多怨嫉」「悪口罵詈」との経文通りの大難であった。
(2008.10.28 新時代第23回本部幹部会)

★昭和54年4月24日
恩知らずになるな、と戸田先生は厳しく指導された。
また、ドイツの哲学者カントは、こう指摘している。
「悪魔的悪徳は人間の悪さをはるかに超えた度合いの悪さをもつ。そうした悪さとして数えられるのは次の三つ、すなわち、嫉妬、恩知らず、他人の不幸を喜ぶ気持である」(御子柴善之訳「コリンズ道徳哲学「『カント全集20』所収、岩波書店)
牧口先生が法難の獄中で、最後までひもとくかれたのがカントである。戸田先生も、よくカントの哲学を引かれた。
「嫉妬」が和合を乱す。「恩知らず」が仏法を破壊する。
私が会長を辞任した時も、絶頂期にあった学会の発展を妬む、卑劣な反逆者がいた。
悪の末路は厳しい。
悪を見て見ぬふりをして、戦わない人間は永遠に悔いを残す。
悪に誑かされ、慈悲も師弟の精神もなくなれば、もはや仏法の世界ではない。二度とそうなってはならない。未来のために、これだけは言い残しておきたい。
(2009.3.4 新時代第27回本部幹部会)

以上抜粋です。ご参考まで。