投稿者:河内平野 投稿日:2014年 9月29日(月)16時42分39秒 返信・引用 編集済

さて、「道理」も語らなければ、多くの人にわからない場合がある。
そこで、きょうは、民部日向(五老僧の一人)と波木井実長の師敵対について、少々、語りたい。

現在、創価学会を「謗法の波木井」呼ばわりしている人がいるようである。
「いつも《歯切れ》が悪くなると《波木井》をもち出す」と言った人がいるが、このさい《はっきり》、その転倒を指摘しておきたい。

日蓮大聖人の門下の「基準」は何か。
それは日蓮大聖人の仰せである。
この明快すぎるほど明快な「道理」を忘れなければ、すべてはあまりにも明らかである。

「法華経の大海の智慧の水を受けたる根源の師を忘れて余へ心をうつさば必ず輪廻生死のわざはいなるべし」(御書一〇五五頁)

――法華経の大海のごとき智慧の水を受けた「根源の師」(日蓮大聖人)を忘れて、よそへ心を移すならば、必ず(地獄等の六道の苦悩の世界を)繰り返し、生死の苦しみにあうこととなろう――。

こう大聖人は厳しく戒めておられる。
「根源の師」である大聖人に従うのが「信心」なのである。
そして、大聖人を御本仏と仰ぎ、厳格に大聖人の教えを守りぬかれたのが、日興上人であられた。

五老僧は「根源の師」の教えを忘れて「よそ」へ心を移してしまったのである。
権威、権力を恐れたり、勝手な邪義をもち出したり、世間の誘惑に堕落したりしてしまった。

身延離山のきっかけとなった民部日向について、日興上人は、その「師敵対」の行状を、「原殿御返事」などにるる記されている。
この堕落僧に、再三にわたり厳愛の指導をされたが、彼は聞き入れなかった。

日興上人は、「原殿御返事」の中で、結論してこう述べられている。
「元より日蓮聖人に背き進らする師共をば捨てぬが還つて失にて候と申す法門なりと御存知渡らせ給うべきか。何よりも御影の此の程の御照覧如何」(編年体御書一七三四頁)

――もとより、「日蓮大聖人に背く邪師らを捨てないことは、かえって、こちらの罪になる」というのが大聖人の法門であると、よくよく知っていかれるべきでしょう。何より、御影(大聖人)が、このほどのことを、どんなふうに照覧されていることでしょうか――。

「大聖人」に師敵対した僧ら、また大聖人の仰せを厳格に守っている「正師」に師敵対した僧らに妥協することは、かえってこちらが罪になる。それが大聖人の法門であると――。

いうまでもなく、大聖人の御聖訓どおり行動してこそ「正師」であり、背けば「邪師」である。
僧侶であるから、高僧であるから、「道理」に反したことでも従うべきである――というのは、日興上人の教えに反する。

御書には、天台の言葉を引いて「文証無きは悉く是れ邪の謂い」(御書四六二頁、『法華玄義』、大正三十三巻)
――経典の「文証」がないのは、すべて「邪」である――と。

経文、御書の「文証」もなく、自分たちの利害や感情や権威によって、何をしても、何を言っても通ると考えるのは、民部日向らと同類の「邪師」である。

【アメリカSGI第一回総会 平成三年九月二十九日(大作全集七十八巻)】