投稿者:寝たきりオジサン 投稿日:2017年 1月17日(火)02時02分37秒   通報

【第4回】世紀のバイオリニストメニューイン氏

聖教2006年5月28日

◎芸術は「人間」を呼び覚ます
一流に触れよ!そこに一流の人格が

1951年の9月15日。羽田空港のタラップの上で、その青年はたくさんのフ
ラッシュを浴びていた。「神童(しんどう)」と呼ばれ、「天才」と評された、
“世紀のバイオリニスト”ユーディー・メニューイン氏である。
当時の日本は十数年、海外からの来日演奏家が途絶えていた。そこへもってきて
の「世界的巨匠の初来日」である。公演が決定するや、すべての音楽愛好家が喝
采した。「いよいよメニューヒン(=メニューイン)到来ね」と、人気の新聞漫
画「サザエさん」でも話題になる。いかに国民が注目していたか、その程(ほど
)がうかがえよう。
氏は、こうした日本人の熱い期待を裏切ることはなかった。演奏会に押し寄せた
聴衆は、その神技に全く魅せられる。戦争は終わったものの、いまだ荒(すさ)
んだ心。そこに希望や勇気が満ちあふれるのを、だれもが感じた。文芸評論家の
小林秀雄氏は、その感動を新聞に綴っている。「私はふるえたり涙が出たりした
」「あゝ、何という音だ。私は、どんなに渇えていたかをはっきり知った」

「音楽はどんなにたいへんな時代でも、なんとか私たちを力づけようと、繰り返
し繰り返し励ましの言葉をかけてくれる。深い根底から発した音楽であればなお
さらである」(別宮貞徳監訳『人間と音楽』日本放送出版協会刊)
終戦後に青春時代を送った私だからだろうか。メニューイン氏のこの言葉に一段
と感慨がわく。暗く、殺伐とした時代。音楽は読書と並んで、私の希望の源泉で
あった。
中でもベートーベンの「運命」が大好きだった。狭いアパートの一室に広がる雄
渾(ゆうこん)の響き。その真っただ中に身を置くと、全身の血が歓喜に震え脈
動した。
そのころ、戸田先生の事業は窮地(きゅうち)にあった。襲いくる過酷な「運命
」。この曲を聴くたびに、負けられない!猛然と勇気が燃え盛った。断じて先生
をお護りするのだ!決意が五体に漲(みなぎ)った。
私は、音楽という“励ましの宝”を、大切な創価の同志と分かち合いたかった。
疲れ切ったリーダーや、肩を落とした青年を誘って、一緒にレコードを聴いたり
もした。楽器を買って、音楽隊や鼓笛隊も発足した。すべて、皆に新たな希望を
贈ろう。
友に限りない力を贈ろう──その一心だった。

「文化を庶民の手に」

メニューイン氏は、芸術と大衆、芸術と日常の一体化を志向していた。「昼間、
町を掃除する人々が、夜には四重奏を演奏する。それが私たちの目指す世界です
」と。いってみれば、多くの民衆が気軽に芸術と触れ合える世界であろう。私も
同じである。庶民が“下駄履き”で行ける音楽会をつくりたい──そう願って、
民音を創った。
そもそも、芸術は一部の人間の独占物ではない。それを、自分が威張るための道
具にする。自分を偉く見せるための装飾品にする。何と愚劣な!芸術は、着飾っ
た紳士淑女のためばかりにあるのではない。無冠の庶民のためにもあるのだ。演
奏会もそう。美術館もそうだ。本来、日ごろ間近で本物に接したことのない人の
ためにあるのだ。
民音の創設は、「公明政治連盟」を結成した翌年(63年)のことだった。それ
だけに、「創価学会、タクトを振るう」「政治の次は文化か」と批判されたもの
である。だが、創立に込めた「心」は同じであった。政治を民衆の手に、文化を
庶民の手に取り戻したい。この一点だった。だからこそ私は、民主音楽協会(民
音)と名付けたのだ。

「対話により一体に」

92年の春4月、お会いした際、メニューイン氏は開口一番、こう言われた。
「池田会長との出会いを待ちこがれていました。きょうという日の喜びは、ひと
しおです」
実は、氏はその5年くらい前から私との対談を希望されていた。「ぜひとも、会
いたい」。真心こもるお手紙を頂戴したのだが、なかなか日程の調整がつかず、
この日に至ったのである。
秀(ひい)でた額(ひたい)、深い光をたたえた目。亜麻色の髪の毛こそ銀色に
変わったが、若々しさは初来日のころと変わらなかった。
教養のある声や話しぶり、非の打ちどころがないマナー、洗練されたユーモアは
、「バイオリンの賢者」と称されるにふさわしい振る舞いだった。
語らいは、夕食を共にしながら3時間半にも及んだ。氏は当時、75歳。会見の
前日も翌日も演奏会だった。体調を案じたが、疲れた様子は見えない。むしろ、
充実した会話を楽しんでおられたようだ。氏は芳名録に記された。「対話によっ
て一体となる喜びを得た一夜でした」

氏が初めて私のことを知ったのは、日ごろ、マッサージを頼んでいたイギリスS
GI(創価学会インタナショナル)の婦人部メンバーを通じてであった。
氏は彼女の技術を讃えた。
「あなたのマッサージは素晴らしい。まるで指が話し掛けてくるようだ」。芸術
家らしい表現である。彼女は率直に語った。「私は仏教徒なんです。マッサージ
をする時は、心で南無妙法蓮華経と唱えているんです」
「ナンミョウホウレンゲキョウ……素晴らしい音律だ」。氏は初めて聞いた題目
に感動した。以来、散歩や入浴の際に口ずさむようになったという。会見でも「
口ずさみやすく、心地よい」と言われていた。99年、亡くなる1カ月前にも、
「皆さまが題目を唱えている事実は素晴らしい」と、フランスSGIの友人に手
紙を綴られている。20世紀を代表する大音楽家の人生の総仕上げは、妙法の音
声(おんじょう)とともにあった。

「一流に触れ、自身を高めよ!」。これは戸田先生の遺言である。先生は私たち
青年を、決して「宗教の専門家」に育てようとされたのではなかった。「第一級
の社会人たれ!」。こう薫陶(くんとう)された。
私も、青年には「一流」に触れさせたい。一流を見ていれば、二流・三流はすぐ
わかる。二流・三流を追っていては、どこまでいっても一流はわからない。一流
の人物と接する。一流の音楽を聴く。一流の書物に親しむ。一流の美を鑑賞する
。そこに、一流の人格も磨かれる。
メニューイン氏は晩年、教育に力を注がれた。若い才能を育成しようと、音楽学
校を創設する。スイスにある国際メニューイン音楽アカデミーも、その一つ。ア
カデミーのアルベルト・リシ音楽監督は、わざわざ私の創立した関西創価学園を
訪れ、演奏も披露してくださった。
監督は、師匠である氏との出会いを振り返りながら、「巨匠との交流それこそ、
若い才能を育てる最高の道である」と語っている。師弟である。一流との触発で
ある。大いなる魂との出会いが、大いなる技と心を養うのだ。

「会長と私は同志」

メニューイン氏の音楽教育の目標は、「人間が人間らしい心を持てるよう手を貸
すことにある」(前掲書)。だからこそ、文化を抑圧し、人間性を抑圧する勢力
とは、毅然として戦った。
会見で、氏は鋭く指摘された。「権力は『人間』を忘れさせます」
それに応えて私は申し上げた。「芸術は『人間』を呼び覚まします」
「仏法」と「音楽」──互いに深く「人間」を尊敬する信念が確かに共鳴した。
「池田会長と私は同志です」と。

(注)ユーディー・メニューイン(1916年?1999年)
20世紀最高峰のバイオリニスト。指揮者。アメリカ・ニューヨーク生まれ。4
歳からバイオリンを始め、7歳でデビュー。ヨーロッパ各地でも活躍し「神童」
「天才」の名をほしいままにした。18歳の時、72都市で110回のコンサー
トを。10代にして、その世界的名声は不動となった。第2次大戦後は、主にイ
ギリスとスイスで活動。58年、イギリスにメニューイン室内管弦楽団を結成し
、翌年からロンドンに定住。63年、イギリスに「ユーディー・メニューイン・
スクール」、77年、スイスに「国際メニューイン音楽アカデミー」を設立。音
楽の普及と後進の育成のほか、人権・平和運動にも尽力した。51年の初来日以
来、6度の日本公演を。92年4月、東京で池田名誉会長と会見している。